遺体や重傷者が転がる金比羅山の山道を進む。頂上からの眺めに目を疑った。あめ細工のように曲がった工場。黒くすすけて無残な姿になった病院。あるはずの建物や街並みは跡形もない。どこまでも荒涼とした焼け野原が広がっていた。戦慄(せんりつ)の光景が目に焼きついて離れない。
当時は旧制県立長崎中の4年生。三菱長崎造船所幸町工場に学徒動員されていた。母は2年前に他界。父は仕事で大村市を拠点に各地へ出向いていたため、長崎医科大薬学部に通う20歳の兄と下西山町の借家で2人暮らしをしていた。
8月9日は夜勤日で、午前中は部屋で本を読んでいた。突然、異様な音が聞こえたかと思うと、強烈な光を浴びて爆風で床にたたきつけられた。腕や首にガラスの破片が刺さり、血が流れた。
大学に行った兄が翌朝になっても戻らない。混乱する長崎駅付近を避け、金比羅山を越えて兄を捜しに大学へ向かった。山道に入ると、全身血だらけでよろめきながら坂を下る幽霊のような人の群れに出会った。
背筋が凍る光景は、山を登るにつれてひどくなる。大やけどで皮膚がはがれた人、頭を割られたすさまじい形相の人が、半死半生の状態でうめいていた。「水を下さい、水を…」と求められたが、何もできなかった。
到着した長崎医科大の基礎教室は爆心地から約600メートル付近。想像を絶する熱線と衝撃波で一瞬にして炎上、崩壊したと思われる跡があった。ぼうぜんとして帰路に就き、長い間、兄の帰りを待ち続けたが、ついにその日は来なかった。
67年後の5月、再び金比羅山に登った。新興住宅地沿いの道を山頂へ進むと、徐々に樹木が茂り、静寂に包まれていく。息絶えた人々の霊魂が漂っているように感じた。水をあげられなかったあの日を思い、山道にペットボトルの水をまいた。
<私の願い>
戦争で最も犠牲となるのは、銃や刀を持たない一般庶民や老人、女性、子どもたち。戦争は人間の尊厳を破壊に導く罪悪に他ならない。原爆投下直後の長崎の惨状はとても言葉で表現できるものではなかった。犠牲者の無念をしのび、心痛みつつも、その記憶を後世に伝えることの大切さを考える。