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私の被爆ノート

硬直した赤ん坊抱く母親

2012年10月18日 掲載
町田 恒幸(88) 町田恒幸さん(88) 入市被爆 =平戸市生月町=

徴用を受けて17歳から香焼島(旧西彼香焼村)の造船所で働き、19歳で徴兵。島内の陸軍高射砲第134連隊第6中隊に衛生兵として配属された。原爆が落とされたのは、21歳の夏だった。

8月9日。朝から兵舎外で作業していたが空襲警報が鳴り、塹壕(ざんごう)に退避した。けが人が出れば、飛び出して手当てするのが衛生兵の役目。浅い穴の中、かがみ込むようにしてB29の行方に耳を澄ませていた。

午前11時ごろ、警戒警報に切り替わり「ようやく終わったか」と思った時だった。黄色い閃光(せんこう)が走り、爆風で数メートル吹き飛ばされた。中隊内に重傷者はおらず、長崎市内で救護に当たるよう命令を受けた。

船で午後2時ごろ、大波止に到着。県庁は燃え上がり、長崎駅方面は見渡す限り焼け野原だった。鍋冠山にあった連隊本部に着くと、やけどを負った兵士が次々と運び込まれていた。知人もいたが顔が赤く腫れ、見分けがつかなかった。

翌日からは負傷兵担当と交代しながら浦上地区で市民救護に当たった。三菱長崎兵器製作所茂里町工場近くの被害はさらにひどく、黒焦げの人や牛馬が野ざらしだった。生き残った人も皮膚が溶けており、求められるたび指先から垂れた部分をはさみで切ってあげた。

哀れだったのは、死後硬直した赤ん坊を抱き続けていた若い母親。わが子の死を認めきれなかったのだろう。治療してくださいというように遺体を差し出したが私は首を横に振り、死んでいることを伝えた。母親は「ありがとうございました」と言い残し、抱いたまま去っていった。

15日、玉音放送を連隊本部で聞き除隊。20日ごろに故郷の生月に帰ってきたが、高熱が出て生死のふちをさまよった。当時は原因が分からなかったが放射線の影響だったのだろう。当時を思い出すたびに苦しく、涙が出てくる。

<私の願い>

被爆体験や、チェルノブイリ原発事故などの報道を通じ、原子力は人間の手に負えるものではないと実感していた。政府は昨年、福島第1原発の大事故に対し収束宣言を出したが、無知でとんでもないことだと思う。放射線に傷つけられた心と体は、70年近くたった今に至っても癒えていない。

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