長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

真っ黒な無数の死体

2012年10月4日 掲載
田坂 八束(79) 田坂八束さん(79) 爆心地から3・3キロの長崎市鳴滝町で被爆 =佐世保市早苗町=

出身は現在の新上五島町奈摩郷。10人きょうだいの次男で、終戦の年の6月、旧制県立長崎中への入学を機に12歳で島を出た。

あの日は朝から警戒警報が発令され、長崎中の尚賢寮2階の自習室にいた。見たことのない強い閃光(せんこう)が包み、驚いて廊下に出て階段を駆け下りた。「ドーン」という音と強い爆風が襲い、目と耳を手で押さえ、伏せた。すぐ近くに爆弾が落ちたと思った。

グラウンド横の防空壕(ごう)に避難。しばらくして寮に戻り、散乱したガラス片や壁の土を掃除したが、車の通る音などがするたびに舎監の「全員退避」の号令で再び防空壕に避難した。学徒動員で兵器工場に行っていた上級生が戻り、「浦上はもっとひどかぞ」と聞かされた。

夜、校内の坂からは長崎駅から県庁まで一面が燃えているのが見えた。「この世の終わりだ。これからどがんなっとか」と不安に思った。

12日には長崎中3年だった兄らと五島に帰ることになった。上五島行きの漁船が停泊する佐世保へ向かうため、寮から浦上駅まで歩いた。途中、何か黒いものがうずたかく積まれているのが幾つか見えた。「あれ、人間ばい」と誰かが言った。真っ黒に膨れ上がった無数の死体だった。線路の途中に止まっていた汽車に乗り込み、佐世保へ。14日夜、相浦港から漁船に乗った。

上五島には15日早朝、到着し実家に向かった。「新型爆弾で長崎は全滅」とラジオで聞いていたという母は私を見るなり号泣。父は、私たちを捜しに長崎に出ていた。

被爆した島民が続々と五島に戻ってきた。高熱や下痢、頭髪が抜けるなどさまざまな症状が出て、寝込む人や亡くなる人がいた。「新型爆弾」がもたらす症状についていろんなうわさが飛び交い、「柿の葉がよか」と聞き付けてきた母が毎日せんじて飲ませてくれた。

<私の願い>

勝てるはずのない戦争をして多くの人命が失われた。空襲などで人が死ぬのを何度も見た。戦争はもうこりごり。米国など核保有国に対し、核兵器を使わせない国際的な世論をつくる必要がある。そのためにも被爆者は原爆の悲惨さを世界に訴えていかなければならない。歴史に学ばないといけない。

ページ上部へ