川口 龍也
川口 龍也(76)
川口龍也さん(76) 爆心地から2・1キロの長崎市西坂町で被爆 =長崎市清水町=

私の被爆ノート

壕に響く苦しみの声

2012年9月27日 掲載
川口 龍也
川口 龍也(76) 川口龍也さん(76) 爆心地から2・1キロの長崎市西坂町で被爆 =長崎市清水町=

当時9歳で、西坂国民学校に通っていた。あの日、学校近くの神社で、友人とセミを捕って遊んでいた時、さく裂音とともに閃光(せんこう)が走った。境内には青白い光が広がり、稲妻の中にいるような異様な光景。とっさに「伏せー」と叫び、目と耳をふさいで地面に突っ伏した。

しばらくして起き上がると、神社の石柱が倒れていた。街はどうなったかと広場に下りて見渡しても、黒い砂煙のようなものが上がっていて、長崎駅は見えなかった。「うおー」という地鳴りのような不気味な音が聞こえた。

友人の母から「何をしてるの、早く家に帰らんば」と怒られ、西坂の畑道を下りていると、髪を振り乱し片足がちぎれた女性とすれ違った。その後ろにも、やけどを負い服はぼろぼろになった数人の被爆者が続いた。

自宅に帰ると、妹2人は小屋に隠れていて無事。母にもけがはなかった。街から火の手が迫っていたので、近くの防空壕(ごう)に逃げ込み、被爆後4日間はその場所で過ごした。

近くには畑があって、野菜なら食べることができた。だが、家も燃えてしまい、不安な日々。壕内には顔に大やけどを負った人の苦しむ声がずっと響いていた。母、妹と13日朝に抜け出して、小佐々(現・佐世保市小佐々町)の海軍施設にいた父の元を目指した。

途中、大勢の被爆者を見たはずだが、記憶は途切れている。聖徳寺近くの診療所でもらったおにぎりが臭くて食べられなかったこと、大橋で岸に並べられた数十の黒焦げの死体を見たことなどの記憶が断片的に残る。

夜、海軍施設で父と再会して、少しだけ安心できた。同施設には泊まれない規則だったので、その日は、母と妹と一緒に近くの豚小屋で寝た。

甲状腺機能低下症を20年ほど前に発症。現在も放射線被ばくの不安が続いている。

<私の願い>

核兵器と人類の共存は不可能。第五福竜丸事件、福島原発事故を含め4度も核の惨禍を体験した日本は、核兵器廃絶を訴え続ける歴史的な責任がある。また福島の被災者の苦難や健康不安を思うと原発はゼロにすべき。戦争の反省から生まれた憲法9条を守り、平和な世界になることを望む。

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