渡邊ゑい子
渡邊ゑい子(84)
渡邊ゑい子さん(84) 爆心地から2・5キロの長崎市平戸小屋町で被爆 =長崎市城山町=

私の被爆ノート

目を腫らし立ち尽くす馬

2012年9月20日 掲載
渡邊ゑい子
渡邊ゑい子(84) 渡邊ゑい子さん(84) 爆心地から2・5キロの長崎市平戸小屋町で被爆 =長崎市城山町=

当時17歳で、県立長崎高等女学校2年。自宅は長崎市大黒町にあったが、家族で西彼時津町に疎開しており、そこから学徒報国隊として長崎市平戸小屋町(現丸尾町)の三菱電機長崎製作所に通っていた。

8月9日、同製作所の事務所で机に向かって事務作業をしていたら強い光が走った。急いで机の下に潜り、耳と目を両手でふさいだ瞬間、ドーンと大きい音がして、体の左側から爆風が吹きつけた。近くに爆弾が落ちたと思った。事務所内は物が散乱し、ぐちゃぐちゃになってしまった。みんなで近くの防空壕(ごう)に避難。左半身が少し腫れて鈍痛がした。

しばらくして母や妹たちが待つ時津に帰ろうと、同じ方面を目指す十数人と一緒に歩きだしたがはぐれた。いつの間にか一人で、浦上川沿いの土手を歩いていた。

馬が目を腫らし、体もぱんぱんに膨らませて立ち尽くしていた。その足元には真っ黒焦げの小学生ぐらいの子どもが転がっている。目に映る人は皆、焼けただれていた。ぼろぼろの着物の人が水を求めて浦上川を下りていく。水を飲もうとして頭を川に突っ込んだまま死んでしまう人もいた。川を隔てた向こう側は、ごうごうと激しく燃えていた。

道ノ尾駅に着くと、けが人が線路の両脇にマグロのように並べられていた。血まみれの人や衣服が黒焦げになった人が、「苦しい」「助けて」とうめいている。虫の息で声も出せない人、死に絶えた人もたくさんいた。

「汽車には乗れない」。そう思った。とにかく時津に帰りたい一心で歩き続けた。家に着くころには日が傾いていた。母に会えて安心した。手渡された水を1杯飲んだところで気絶した。

それから数日間、意識がもうろうとしていた。寝たきりで過ごしたので何も覚えていない。いつの間にか終戦となっていた。

<私の願い>

あの日の光景は思い出したくないが、何十年たっても忘れられない。原爆は、一瞬で全てを地獄にした。戦争の恐ろしい点は、国が始めたことなのに、傷つくのはいつも私たちのような弱い立場の民間人だということ。非人道的な核兵器と戦争をこの世からなくし、平和な世界を築いてもらいたい。

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