田坂 弘子
田坂 弘子(77)
田坂弘子さん(77) 爆心地から2・6キロの長崎市上筑後町で被爆 =佐世保市早苗町=

私の被爆ノート

日が暮れても空赤く

2012年8月30日 掲載
田坂 弘子
田坂 弘子(77) 田坂弘子さん(77) 爆心地から2・6キロの長崎市上筑後町で被爆 =佐世保市早苗町=

当時10歳で勝山国民学校(現・桜町小)の4年生。午前10時すぎに空襲警報が鳴った。自宅(上筑後町)近くの防空壕(ごう)に母、姉と逃げたが警戒警報に変わったので戻り、衣服のノミやシラミを取っていた。

その時、ラジオが空襲警報を報じ、島原方面からB29が西に進行中であることを伝えた。同時に飛行機の爆音が響いた。玄関先の地面に掘られていた穴へ姉と走った。木のふたは半分ずれており、そこから入ろうとした時、ピカッという強い光が走った。姉と転がり落ちてふたをふさぐと、今度はものすごい爆風が吹いた。けがはなかったが、穴から出るとごみやガラス、家にあるもの全部が吹き飛んでいた。縁側にいた母は、額に大きなこぶができていた。

何か違った爆弾が落ちたのだと思った。少しでも遠くに逃げようと、母、姉と高台の祖母の家へ向かった。県庁付近は黒い煙が漂い、火が回ってこないか心配だった。自動車のエンジン音は飛行機の音に聞こえ、そのたびに道路脇の溝に身を隠しながら歩いた。

祖母の家に着くと、後からずたずたの服を着た見知らぬ3人が訪ねてきた。泊めてほしいとやって来たのだろう。母は「見るな見るな」と私と姉を遠ざけ、彼らの頼みを断っていた。けがをしていた様子だった。「かわいそう、泊めてあげればいいのに」と子どもながらに思った。

日が暮れても空は赤いままだった。屋内に寝るのは危険だからと、外の大きな溝に近所の人たちと座り、夜を過ごした。深夜、県庁勤めの父が私たちを捜し訪ねてきて、無事を喜び合った。

自宅に戻ったのは4、5日後。柱と屋根が残るだけの無残なさまだったが、どうしてこんな目に、なんて思わなかった。戦争だから、燃えなかっただけましだと思っていた。日本人は、本当に素直に教育されていたんだと思う。

<私の願い>

家を焼かれ、人間らしい気持ちが持てず人間らしい生活もできないのが戦争。今もし戦争が始まれば、当時の何倍もひどいことになる。被爆者や引き揚げ者の体験を若い人に知ってもらい、戦争のない世の中にするためにどうすべきか、考えてほしい。世界で争いが起こらないように祈るばかりだ。

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