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私の被爆ノート

壕内に悪臭が充満

2012年8月23日 掲載
松本シゲ子(92) 松本シゲ子さん(72) 爆心地から1・0キロの長崎市油木町西郷で被爆 =長崎市出雲1丁目=

当時、両親は仕事の都合で満州にいて、5歳の私と11歳の姉、3歳の弟は長崎市駒場町の祖父母宅に預けられていた。

あの日、油木町の防空壕(ごう)に避難した私たちきょうだいは、壕の入り口近くでままごとをして祖父の迎えを待っていた。突然の閃光(せんこう)とごう音。壕内の壁にたたきつけられ、頭をけがした。

姉と弟は無事だった。やがて全身にやけどを負った人たちが壕に避難してきた。赤く焼けただれた少年が「母ちゃん。熱か熱か」とうめきながら息絶えた。壕内は異臭が充満していた。

数日後、祖父が迎えに来てくれた。やっと外に出て一緒に野宿したが、私は下痢や嘔吐(おうと)を繰り返した。「食べんば死ぬぞ」。あの時、祖父が口に入れてくれた一粒のブドウの味は今も忘れられない。それから祖父らと爆心地から約200メートルの家に向かった。途中、黒焦げや生焼けで目玉が飛び出した遺体が転がっていた。馬はおなかが膨れて死んでいた。

家は跡形もなかった。米軍のトラックが、がれきの撤去を始めようとしたので、祖父は「ここには妻たちがいる」と泣いてすがった。がれきの下を捜すと、20歳だった祖父の三男の腕時計が出てきた。台所付近からは肉片も見つかった。祖父は妻のものと思い、焼いて灰にして持ち帰った。

祖父は、妻、三男、次女を一度に失い、生き残った私たち孫3人を抱え、浦上天主堂のがれき撤去などで生計を立てた。しばらくして「落下中心地に草木が生えた。おれたちも頑張らんば」とうれしそうに言っていた。

その後、母だけが引き揚げてきて一緒に暮らすことになった。祖父は入退院を繰り返し、私が26歳の時に死んだ。私は被爆のせいで結婚をためらった。健康な赤ちゃんを産めるのか不安だった。差別や同情が嫌で、2年前まで被爆体験を語ってこなかった。

<私の願い>

被爆体験はトラウマ(心的外傷)として今も残っている。戦争を人間が行ったとは、今でも信じられないし信じたくない。被爆でつらい気持ちを味わうのは広島、長崎だけで十分だと願ってきたが、福島第1原発事故で新たな被ばく者が生まれてしまった。人類と原子力は共存できないと強く思う。

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