高平 弘
高平 弘(84)
高平弘さん(84) 爆心地から1・5キロの長崎市幸町で被爆 =長崎市脇岬町=

私の被爆ノート

住み慣れた町が地獄に

2012年8月2日 掲載
高平 弘
高平 弘(84) 高平弘さん(84) 爆心地から1・5キロの長崎市幸町で被爆 =長崎市脇岬町=

小学3年のとき、脇岬町から家族で山里町(現平和町)へ引っ越した。三菱工業青年学校へ進学。卒業と同時に三菱長崎造船所幸町工場で働き始めた。やがて空襲がひどくなり、母は妹と弟を連れ脇岬へ戻った。山里には姉とその長女で2歳の貞子、妹と一緒に残った。

17歳だった。8月9日、工場で仕事をしていると、まぶしい光と大きな音を感じ、熱風が吹き付けた。とっさに目と耳を押さえて伏せた。しばらくして起き上がると工場は無残な姿に。天井から配線がぶらさがり、壁は吹き飛び、周りの床はがれきだらけ。大きな配電機の陰にいたからか、私は奇跡的に無傷だった。

外に出ると私の名を呼ぶ声がした。振り返ると顔の皮膚が垂れ下がり、服もぼろぼろの人が呼んでいた。話し方で親しくしている工場の友人と分かった。「痛かろ。ここにおらんね」。防空壕(ごう)に連れて行って休ませ、薬をもらおうと近くの詰め所へ向かった。

詰め所では工場の技師が点呼をとっていた。浦上の方から火が燃え広がってきていた。姉たちのことが気になり、防空壕に友人がいることを技師に伝えると、一目散に家の方へ走った。

頭上で飛行機の音がした。「攻撃してくるかもしれない」。そう思ったが、走り続けた。途中、電車の中でたくさんの人が折り重なって死んでいるのを見た。男か女か、大人か子どもかさえ分からないような死体だった。「下の川」を見ると、たくさんの死体が浮いている。生きた人には会わず、住み慣れた町は地獄のように変わっていた。

家は焼けて崩れていた。辺りの木の板や瓦を素手で払いのけ、転がっていた死体をひっくり返し、姉たちを捜したが見つからない。周囲の惨状を見ても死んだとはなぜか思えず、一心不乱に走り回り、姉、妹、貞ちゃんの名前を呼び続けた。

結局、3人は遺骨さえ見つからなかった。

<私の願い>

原爆は自分本位の考え方から生まれた兵器。周りはどうなってもいいというような、人が生み出せないはずの非人道的なものだ。一体誰がそんなものを望むのか。二度と同じようなことが起こらないように、あの日の地獄を見た私たちの声を聞いてほしい。悲しみは何年たっても消えはしない。

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