西勝寺(長崎市上町)の僧侶だった父らの反対を押し切り、兵庫の陸軍航空通信学校に進学。当時の戦闘機は燃料を片道分しか積まず、出撃すれば最後は敵艦に体当たりするのが当たり前だった。「お国のために死ねるなら本望」。その考えに疑いすら持たなかった。
1945年、群馬にある新田飛行場の戦闘部隊に配属。出撃を待っていた。8月15日、終戦を告げられた。16歳だった。
長崎と広島に新型爆弾が落とされたことは聞いていたが、詳細は分からなかった。終戦から数日後、長崎に帰る途中、広島の親類宅に向かった。電車の窓から見る市街地は一面、焼け野原。広島駅の駅舎は跡形もなかった。親類は無事だったが不安がよぎった。「長崎の街は、そして両親はどうなっているだろうか」
21日、道ノ尾駅に到着。歩いて八百屋町の自宅を目指した。眼前には広島と同じような光景が広がっていた。街中はがれきが散乱し、あらゆる建物が全壊。道の至る所に犬や猫、馬など黒く焼け焦げた動物の死骸がごろごろと転がり、腐った肉の臭いが鼻をついた。以前、学徒動員で働いた茂里町の三菱長崎製鋼所の鉄骨は、あめ細工のように溶けてぐにゃぐにゃにねじ曲がっていた。自宅近くでは中町天主堂がぽつりと残っていた。被害は想像をはるかに超えていて、これが自分の育った街だとは信じられなかった。
母親は無事だったが、父は原爆投下後から現在まで行方不明のままだ。分かっているのは、あの日、空襲警報が解除になり、いつものように爆心地付近の檀家(だんか)の法要に出掛けたことぐらい。
小学校教諭を約30年間勤めた後、父の跡を継ぎ、僧侶になった。父や原爆死没者の冥福を祈るため人生の全てをささげてきたが、昨年で引退した。今は毎朝、爆心地公園に出向き、手を合わせている。
<私の願い>
原爆では身元不明の遺体や、家族が死んで引き取り手がいない遺体などがあり、無縁仏がたくさん生まれた。もちろん日本人だけでなく、外国人の命も多く奪われた。人間同士が争う戦争がいけない。人に親切にする、優しくすることが大事。核で他国をおとしめようなんて考えないでほしい。