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私の被爆ノート

うじ湧き「殺してくれ」

2012年7月12日 掲載
松尾 清子(84) 松尾清子さん(84) 入市被爆 =西彼時津町日並郷=

17歳だった。当時の西彼長与村の三菱兵器製作所堂崎工場で、工員として魚雷製造に携わっていた。あの日は午前中に空襲警報が出たので防空壕(ごう)に避難したが解除され、工場に戻った。

午前11時すぎ、オレンジ色の光が走った。すぐに「ドン」という雷が落ちるような音がして、壁掛け時計や棚の物が落ち、窓ガラスは割れた。

広島で新型爆弾が使われたことは工場内のうわさで知っていた。「同じ新型爆弾が長崎にも落とされた」と直感した。午後3時ごろ、長崎に爆弾が落とされたと工場に情報が入り、市内の同製作所大橋工場に翌日救護に行くよう指示された。

翌朝、当時の西彼時津村の日並にあった自宅から、同僚と工場を目指して歩いた。市内が近づくにつれて風景は一変。電柱は倒れ、家屋は崩壊。至る所に、ぱんぱんに腫れ上がった馬の死骸が転がり、人々の死体も見た。

大橋工場に着くと空襲警報が鳴り、地下室に避難。部屋にはやけどで肌が褐色になり、体中が膨れ上がった人たちでごった返していた。髪は縮れ、男女の区別さえ付かなかった。目も見開いており異様な雰囲気だったが、怖いとは思わなかった。

その日は、付近でがれきの下敷きになった生存者の救助に当たった。声を頼りに捜し、同僚らと一緒に数人を助けた。その後の2日間は、市内で活動する兵隊たちの炊き出しなどをした。

13日から、時津村の学校や寺に設けられた救護所に回った。部屋に横たわった人たちは皆、鼻や目、口、耳など至る所からうじが湧いていた。「殺してくれ」と叫ぶ人もおり、少しでも痛みが和らぐようにと、うじをはしで取り、空き缶の中に入れた。

何人も亡くなるのを目にして、どこか無力さを感じた。終戦から67年が過ぎようとする今も、その思いは消えない。

<私の願い>

現在も国によっては外交に核兵器を利用し、また、それを抑止するために保有する国もある。核抑止力や平和目的など、いかなる理由を付けようとも兵器は兵器。広島や長崎のような惨劇を二度と繰り返さないよう、核兵器の廃絶はもちろん、戦争のない平和な世界の実現を願っている。

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