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私の被爆ノート

湾越しに赤く光る長崎

2012年7月5日 掲載
黒石 ミサ(80) 黒石ミサさん(80) 川棚町で救護被爆 =佐世保市船越町=

当時、川棚国民学校高等科2年生で14歳。学徒動員先の川棚海軍共済病院にいた。食堂の近くで昼食の時間を知らせる号令を待っていると、閃光(せんこう)が走り、「ドン」という爆発音が聞こえた。急いで防空壕(ごう)に避難したが、「長崎は大空襲」との放送を聞いて、長崎がやられたのだと分かった。

自宅(東彼川棚町)に帰った夜、大村湾を隔てた南の空が赤々と大きな山のように光っていて、恐ろしくて眠れなかった。消防団に入っていた父が「長崎は全滅ばいね」とつぶやいた。夜空に長崎の街が燃える真っ赤な明かりが見え、それは2、3日続いた。月日がたっても、この時の光景はしっかり覚えている。

翌日から列車とトラックで続々と運ばれてきた被爆者は、病院の倉庫に大勢横たわっていた。比較的軽傷の人は病室が空き次第移ったが、ほとんどは倉庫で亡くなり、身元が分からない人は近くの火葬場へ運ばれたようだ。長崎から家族を捜して火葬場を訪ねてきた人もいたらしい。

学徒は10日間ほど、被爆者の負傷部に巻く包帯を洗う作業を手伝った。包帯を運ぶため病棟に近づいた時に室内をのぞくと、髪が真っ黒焦げで皮膚はただれ、ほお骨がむき出しになり、性別の分からない人たちがベッドや床でうめき声を上げていた。

中には「水がほしい」「助けてください」と聞き取れる声もあったが、決して水を与えてはいけないと医師らに固く言われていたのであげられず、かわいそうだった。学徒の手伝いが終わってからも2カ月以上、病院では被爆者の手当てや火葬が続いたようだ。

毎年8月9日、川棚町白石郷の原爆殉難者慰霊碑の前である慰霊祭に、当時の同級生たちと参列。高齢化などで一緒に足を運べる人数は徐々に減っているが、「体力の続くうちは毎年行こう」と互いに約束している。

<私の願い>

人間同士が殺し合う戦争や、一瞬で多くの命を奪う核兵器は残酷。これ以上、人類が経験してはいけない。皆が仲良く手をつなぐ世界をつくらないと、戦争で命をなくした人や、これからの時代を生きる子どもたちに申し訳ない。家庭や地域など身近なところから、こうした世界づくりを始めていけるはず。

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