長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

三味線で生き抜いた

2012年6月29日 掲載
大黒ちかこ(78) 大黒ちかこさん(95) 爆心地から2キロの長崎市稲佐町2丁目で被爆 =長崎市曙町=

10代のころから三味線弾きとしてお座敷に上がっていたが、戦争が激しさを増してくると「歌舞音曲は一切取りやめ」との命令で仕事がなくなった。そんな時、底引き網漁船の漁労長だった夫と出会い、結婚。しかし3カ月ほどで軍に召集された。私は妊娠中だった。

1945年、28歳になり長男は3歳。稲佐町で暮らしていた。夫は「満州にいる」という手紙が届いて以来、音信不通だった。あの日、朝から空襲警報が鳴り、長男を連れて近所の防空壕(ごう)に逃げた。警報が解除された後、長男を残していったん帰宅。その時、パッと外が明るくなり、大きな音がした。外に出ると爆風で近隣家屋から飛ばされた瓦が道に散乱していた。急いで壕に向かった。長男は無事だった。「敵軍が上陸する」とうわさが流れ、慌てて茂木に逃げたが身寄りも食料もない。「どうせ死ぬなら家で」と思い、戻った。

幸い、家は住める状態だったが、市内の様子はひどかった。宝町の辺りは死んだ牛が転がり、路面電車も横倒しになっていた。夕方になると遺体を燃やす煙があちこちで立ち上り、ひどいにおいだった。稲佐小には、やけどした人が運び込まれ、私は洗濯や湯を沸かすなど看護の手伝いをした。傷口にうじ虫がわき、苦しそうにしている姿を見て痛々しく感じた。

終戦から1カ月もしないうちに、夫の部下が訪ねてきた。夫はフィリピンで戦死したらしい。覚悟はしていたが、涙が止まらなかった。夫はそれまで3回も軍に召集されていたが「今度の戦争ばかりは行くのが恐ろしい」とつぶやいていたのが最後の言葉だった。

これまで多くの弟子を育て、三味線一本で生き抜いてきた。長崎くんちには48年の出演以来、携わった。原爆の傷が癒えない当時、執り行われた奉納踊りに長崎人の心意気を感じた。

<私の願い>

戦争は、夫も含め多くのものを私から奪っていった。周囲からの偏見を避けるために、被爆したことを伏せていた時期もあった。被爆から67年、あの日の記憶は私の中でも徐々に薄れつつある。しかし、つらいばっかりの戦争だけはもう繰り返さないでくれとの思いは薄れることはない。

ページ上部へ