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私の被爆ノート

毎日 火葬場のにおい

2012年6月21日 掲載
清水紀美子(78) 清水紀美子さん(78) 爆心地から1・6キロの銭座町2丁目で被爆 =長崎市銭座町=

銭座国民学校6年生で11歳だった。銭座町の自宅前が変電所だったため空襲の標的になるのを恐れ、同町内の母方の実家に両親と一緒に身を寄せていた。あの日、天草方面から敵機が進行していることを居間のラジオが報じたように記憶している。避難に備えブラウスを羽織った途端、紫の光に包まれ、天井や壁、荷物がのしかかってきた。

「きみちゃん」-。母の声に、ハッと意識が戻った。大けがはしていなかったので、いとこと高台の銭座天満宮まで走った。見下ろすと街は火の海。炎がバリバリと音を立てながら迫ってきたため、さらに高台へ。逃げる途中で聞こえた「熱か」「助けて」という悲鳴が今も耳に残る。やけどで皮膚がめくれ上がったりおなかが膨れた遺体を何人も見た。

両親や親類と合流し、夕方、高台を下った。母方の実家の畑にいると雨が降りだした。手を差し伸べると黒い雨で、母と「おかしかね」などと話した。夜は、畑にある大きな水槽にためた雨水で、カボチャを煮て食べた。

翌日配給されたおにぎりはとてもうれしく、今でも感謝している。その後も畑のサツマイモやカボチャで飢えをしのいだ。今思えば、水も食料も放射能にまみれたものを口にしていたのだろう。

その後も、きのうまで作業をしていた人が急に亡くなるなどした。一帯は毎日、火葬場のようなにおいが漂っていた。

胃腸が悪くなり、下痢や嘔吐(おうと)が続いた。22歳で結婚し23歳で長男を生んだが、29歳の時、卵巣に腫瘍が見つかり片方を取った。35歳で胃がんのため胃の大半を切除。病に襲われるまで放射能の恐ろしさを知らなかった。

当時の被爆の写真を見たりすると人々が亡くなっていったことを思い出してしまい、具合が悪くなる。原爆の記憶は、トラウマ(心的外傷)になっている。

<私の願い>

原爆は一瞬にして万物を死滅させ、決して逃げることのできない怖さがある。そのことは、若い人も知っておいてほしい。核兵器を二度と使わせないようにすることは、これからを生きる人の仕事でもある。衣食住がそろっていて勉強もできることのありがたさを再度、見つめ直してほしい。

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