長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

空が一面真っ赤に

2012年6月14日 掲載
江原 篤子(83) 江原篤子さん(83) 爆心地から3・2キロの桜馬場町で被爆 =長崎市宝栄町=

べっ甲店の娘として長崎市浜町で生まれ育ち、小さいころはレコード店に好きな洋楽を聴きに行くのが楽しかった。しかし戦争が激しくなるとそれもできなくなった。体の弱い父は1945年春、45歳で召集。空襲の被害から逃れるため、母、妹3人、弟と私は城山町の畑の中に立つ一軒家に引っ越した。 当時16歳。学徒動員のため、三菱重工長崎造船所が作業場として使用していた長崎市立高等女学校(現桜馬場中の地)の体育館で小さなネジを作っていた。7月ごろからは原材料が足りなくなり、製造の依頼に応えられない状態だった。

8月9日午前11時2分、体育館の窓から見える空が一面真っ赤になった。太陽が落ちてきたと思った。50~60人が体育館にいたが、みんなとっさに身をかがめた。数秒後、爆風で窓ガラスが一気に割れた。言葉では表せないほど怖かった。

すぐに近くの防空壕(ごう)に逃げた。何か悪いことが起きたことだけは分かった。でも、家族は町の外れにいることだし、きっと大丈夫と安心していた。

現場監督の指示で翌日の明け方まで防空壕にとどまった後、私は大橋に住んでいた同級生と帰ることにした。しかし長崎駅より先は道なき道。線路を伝って歩き、何とか家にたどり着いた。妹、弟の4人はガラスが全身に刺さったり、崩れた家の下敷きになって既に亡くなっていた。無事だった母によると、9歳の妹は死ぬ間際、息も途絶えがちに「早う戦争が終わればよかね」と話したという。母はショックで抜け殻のようだった。 妹たちは近所の人が火葬してくれた。お骨は、家の焼け跡から出てきた大きな花瓶に入れた。それを大事に抱き締めた。

終戦を迎え、8月末に父が佐世保から帰ってきた。妹たちが亡くなったことを知り、何とも言えない寂しい表情をしていた。

<私の願い>

何もしていない幼い子どもたちまで犠牲になる戦争は絶対に許せない。毎年8月9日が来ると当時の悲惨さを思い出し涙が出てくる。当時のことを話すのはつらいし、百パーセント伝えることは難しいと思う。でも、後世に残していかないといけないので、今は仲間と共に歌で伝える活動をしている。

ページ上部へ