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私の被爆ノート

「地獄絵本」思い出し

2012年6月7日 掲載
丸内 進(75) 丸内進さん(75) 爆心地から1・8キロの長崎市昭和町で被爆 =諫早市真崎町=

兵隊ごっこが好きな西浦上国民学校の3年生だった。9歳ながらに将来は兵隊になってお国のために戦うと思っていた。自宅は疎開してきたおじさん家族など12人の大所帯。おばさんのニワトリが生む卵が楽しみだった。

庭でトンボを捕まえていると、飛行機の爆音が聞こえた。敵機かも分からず玄関に走り込むと赤や青、紫などが入り交じる閃光(せんこう)が束になってかぶさってきた。地球が壊れたと思った。すさまじい風に押し倒され「もう死んだ」と叫んだ。どのくらいたったか。息ができた。「生きとる」と大声を出した。

自宅は、壁も瓦もなく、たるが割れてしょうゆがどくどくと流れ出ていた。おばさんとその子どもは、裏の防空壕(ごう)へ。自分は祖父母がいる川平町に向かった。顔をぬぐうと血が付いた。

途中、母と祖母に再会。祖母は火傷がひどく、皮膚が垂れ下がってつらそうだった。道端は大勢のけが人。腕から血が噴き出ている人が「腕をきびってください」とわら縄を持ってきたが、世話をする余裕はなかった。ふと仏壇の引き出しに入っていた「地獄絵本」を思い出した。生きている時に悪いことをして、やせて骨と皮だけになり、争いながら水や食べ物を欲しがる人々の絵。「本当は死んで地獄にいるのではないか」と思った。

再会した場所の近くのトンネル式防空壕に祖母を残し、自宅裏の防空壕に母と戻った。翌日、ニワトリ1羽が戻ってきて卵を1個産んだ。卵かけご飯にして食べた味は忘れられない。翌朝、ニワトリは死んでいた。おじさんがさばき、スープにした。おいしかったが、ニワトリは放射能で死んだのではと後で思った。よく今まで生きられた。

13日、祖母が亡くなったと祖父から聞いた。トンネルに置きっぱなしにしたおわびと最期のお別れができなかったことを今でも申し訳なく思う。

<私の願い>

戦争は本当にむごい。原爆は大勢の人を一瞬で殺すだけでなく、生き残った人もずっと苦しめる。戦争になれば、今のような生活は続けられない。今の平和な生活を続けていくためには、世界中の国々が戦争をしないように手を取り合って、お互いを理解し合っていくことが必要だ。

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