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私の被爆ノート

激しい横揺れと爆風

2012年5月30日 掲載
松本 義孝(72) 松本義孝さん(72) 爆心地から2キロの稲佐町2丁目で被爆 =五島市木場町=

幼少期のことなど今はほとんど覚えていない。あの日の出来事を除けば。5歳だった私には、あまりに衝撃が大きかったのかもしれない。

一本釣り漁師の父、母と3人暮らしだった。外で遊ぶときは常に防空頭巾をかぶっていた。8月8日に空襲警報が出てから、稲佐の自宅近くにある大きな防空壕(ごう)に母と翌日まで入ったままだった。壕内は両端に寝起きする板が敷かれていて、真ん中が通路。人がたくさんいた。とても暑く、子どもの泣き声とうちわを仰ぐ音しか聞こえない。退屈だった。

あの日、外で多くの女性たちが、空襲で被害を受けた建物の修復作業などをしていたのだろう。壕内を照らす裸電球が、急にドミノ倒しのように次々と消えた。壕の門番が「入れっ」と叫んだ。ものすごい音が響き、激しい横揺れにびっくりして跳び上がった。同時に入り口付近にいた大勢の人が爆風でなだれ込んできた。母もその中にいた。「よっちゃん」。母は、私の名前を呼びながら、はいずって近づいてきてくれた。暗闇の中で皆、恐怖におびえていた。

幸い母に大きなけがはなかった。茂木へ漁に出ていた父は、長崎市内に近づくことができなかったらしく、数日後、やっと再会。3人で自宅に戻ってみたが、全てが破壊され、残骸の中に見慣れた柱時計があった。途方に暮れ、父の実家がある野母崎まで歩くことにした。途中、元船付近で、ひどいにおいが立ち込めていたのを覚えている。

野母崎に着いてしばらくして、戦争に負けたとラジオで聞いた。親戚は皆、涙を流していた。原爆投下前にも米軍機から既に爆撃されていたことや、女性たちが竹やり訓練をしていたことが思い出され、子どもながらに敗戦について「やっぱりな」という感情が湧いたように思う。肩を落とす大人たちを、ただ見詰めていた。

<私の願い>

あの日体験した原子爆弾の恐ろしさは絶対に忘れることはない。どうして戦争をするのか。それを知る必要があると思う。幸い今は平和といわれているけれど、若い人たちには戦争が何よりも恐ろしいものであると分かってほしい。そうすれば、これからも戦争が起こるようなことはないはずだ。

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