島原市内の経理学校の2年生、17歳だった。実家は島原半島の有家町だが、飽の浦の三菱重工長崎造船所に学徒動員。船の艤装(ぎそう)を担当し、早朝から夜遅くまで働いた。下宿先は工場の伍長だった山下さんの自宅で、西町にあった。
8月9日は、特殊潜航艇の建造中だった。空を見上げると、爆撃機が飛んでいた。「朝の空襲警報は解除されたはず」。そう思い、作業に移ろうとした瞬間、ピカッと光が差し込み、ドーンという地響きがした。とっさにうつぶせに。煙のせいか太陽が隠れ、辺りは夕方のように薄暗かった。
すぐに西町の下宿先へ向かった。がれきでふさがれた道路、四方から上がる火の手。無数の死体。何かを叫びながら歩いたり走り回る性別さえ判別できない人たち。この世も終わりかと思った。
下宿先は倒壊していた。顔が真っ黒になった山下さんの妻が「ばあちゃん(山下さんの母)と赤ん坊が下敷きになっとる」と泣きながら訴えてきた。がれきをかき分けて、動けないでいるばあちゃんを助け出したが、3日後に亡くなった。赤ん坊の行方は分からなかった。翌朝、工場から戻った山下さんは、ぼうぜんと立ち尽くしていた。
倒壊した家屋の材木や戸板を使って仮の寝床を作り、死体を土葬する作業を進めた。1週間ほどたったころ、有家町の実家の隣に住むおじが訪ねてきた。「娘のツキは知らないか」。3~4歳年上のいとこで、きょうだいのような存在。城山国民学校の教師で大橋付近で暮らし、長崎に来てからも親しくしていた。
おじと焼け野原を探し回った。諫早、大村、早岐-。各地の病院や避難所を訪ねたが見つからなかった。おじは仕方なく、いとこが同居していた親戚の遺灰を見つけてお骨代わりに拾い、言葉少なに帰っていった。周囲にはなお死体が横たわり、その臭いが鼻をついた。
<私の願い>
当時の状況は、まさに生き地獄だった。あのような悲惨な事態に直面し、それから今こうして自分が生きていることを考えると不思議に思う。親しい人を含め多くの人たちを奪った、あのような戦争を二度と起こしてはならない。核兵器もなくなってほしい。平和な日々を願わずにはいられない。