父は長崎市の三菱重工長崎造船所に勤め、家族8人は現在の市立戸町中(新戸町2丁目)近くで一戸建ての社宅に住んでいた。7歳の私は、家の玄関先で二つ下の妹と手まりをついて遊んでいた。
突如、辺りがピカッと光り、首に熱を感じた。妹は「頭が熱い」と頭部を押さえた。その後、妹は一時的に髪が薄くなった。私の首の後ろにも、やけどの痕が残った。
私と妹は泣きながら家に入り、押し入れに隠れた。窓ガラスが割れ、たんすが倒れていた。1歳の妹と添い寝していた母は無事。川に遊びに行っていた兄も慌てて戻ってきた。
防空壕(ごう)に避難し、また家に戻った。父は、造船所で落ちてきた鉄骨が当たったらしく、頭に包帯を巻いて帰ってきた。「そろばんドック」(小菅修船場跡)で働いていた兄も爆風に飛ばされたが無事。戸町トンネル近くで酢の配給のため並んでいた姉は、大きな木の下にいて大丈夫だった。
12日、本原町1丁目に養子に出ていた一番上の姉の安否を確認するため、母や妹と向かった。爆心地近くまで行ったはずだが、不思議とその光景の記憶はなく、嫌なにおいがしたことだけを覚えている。その姉は、あごから肩にかけてケロイドができた。つらかったのだろう。原爆の話はあまりしなかった。
終戦直後、社宅に米兵が住むということで立ち退き命令が出た。翌日、荷物をまとめて出なければならなかった。「あのとき死んでおけばよかった」。両親が話していたのを覚えている。原爆で死んだ方がましだったと考えていたのだと思う。
立ち退きの日、近所のお母さんたちが「どうすればいいの」と泣きわめいていた。私たちには父がおり、大村市の親戚宅に身を寄せることも決まっていたが、男手を兵隊に取られていた家庭では、途方に暮れるしかなかったのだろう。
<私の願い>
多くの人の命を奪う核兵器には反対だが、世界は「あの国が持っているから、うちも持とう」という感じで、廃絶は難しいのかもしれない。各国が協力して、少しずつでも減らしていくことが必要。被爆者は高齢化している。若い人たちが、被爆者の体験談を語り継いでいってくれたらうれしい。