原爆投下から5日後。1年ぶりの故郷長崎は、廃虚と化していた。全てが灰になり、浦上川の堰(せき)には10~20もの頭蓋骨が見えた。
長崎市橋口町が実家だった。1944年夏の山里国民学校5年生時、母の古里の北松浦郡新御厨町(現松浦市)に父を除く家族5人で疎開した。
45年8月9日。長崎市の三菱長崎製鋼所に勤務する父は、休暇で私たちに会いに来ていた。夕方、長崎の「空襲」をラジオで知った。橋口町の実家はどうなったのか。実家に間借りしている父の妹は無事か。父と私は長崎に行く支度を進めた。
翌10日午前。稲佐に暮らす母方の親戚一家が新御厨町に逃げてきた。「ひどい爆弾で町は火の海。すぐには行かない方がいい」。その表情は深刻な惨状を物語っていた。
日にちをおいて14日、汽車で父と長崎へ。浦上駅の数百メートル手前で降ろされた。当時12歳。あちこちで煙がくすぶっていた。実家の方向さえつかめず、路面電車のレールを頼りに進んだ。
道路の脇は灰やがれきが山積み。投下時刻が昼前だったためか、ご飯を炊く鉄釜が多く転がっていた。家族らの安否確認で歩き回る人々は魂が抜けたように見えた。遠くに見える三菱長崎兵器製作所大橋工場は大破し、鉄骨がむき出しだった。
爆心地から約1キロの実家は燃え尽きており、石垣で場所が分かった。かき分けても灰ばかり。父は10分ほどで諦め、「先を急ぐよ」とつぶやいた。この実家で父の妹は爆死。遺骨はその夫が引き取ったと本原の親戚宅で聞いた。修道女だった父の姉も、浦上天主堂の司祭館で昼食の準備中に犠牲になったという。
父は3人きょうだいで、幼い時に伝染病で両親を亡くしており、きょうだい2人の死に強いショックを受けていたようだった。以降、父が原爆について語ることはほとんどなかった。
<私の願い>
東日本大震災の被災地の光景は原爆投下後の長崎に重なって見えるが、原爆は人間が生み出し、みんなを不幸にする人災。止めるのも人間しかいない。 原爆の5年ほど後から腰骨が痛み、薬が手放せない。健康への不安は常にある。教育も満足に受けられなかった。全て戦争のせいだ。