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私の被爆ノート

腕に傷痕 夏でも長袖

2012年4月19日 掲載
松本 ミヨ(81) 松本ミヨさん(81) 爆心地から1・1キロの大橋町で被爆 =西海市西彼町下岳郷=

長崎市大橋町の三菱長崎兵器製作所大橋工場で、魚雷に使うねじを作っていた。ピカッと閃光(せんこう)が走り、とっさに目と耳をふさいで床に伏せた。ドーンという爆音が響き、一瞬で建物が壊れた。腰に材木か鉄骨かがのし掛かり、動けなくなった。

当時15歳。春に西彼杵郡亀岳村(現西海市西彼町)の亀岳国民学校高等科を卒業し、親元を離れ、徴用先の大橋工場に住吉寮から通う毎日だった。

「助けてー」。30分以上、叫び続けた。3人がかりで助け出してもらった時、私の頭や背中、腕にはガラス片が刺さり、血だらけだった。工場を出ると、立ったまま死んでいる馬車馬が見えた。逃げるような格好の黒焦げの死体もあった。

三菱長崎兵器製作所の西郷寮(現長崎市西町)の方面に歩きだした。途中、「お母さん、助けて」と叫ぶ声が聞こえたが、進む方向しか見なかった。西郷寮近くで田んぼの溝にもぐり込み、落ちていたトタン屋根をかぶって身を隠した。水を飲んだら死ぬんじゃないかと心配だったが、喉の渇きを我慢できず、溝の水を飲んだ。

夕方、住吉寮に戻ると全焼していた。玄関前にいた同郷の同級生1人、先輩3人と亀岳村に向かうことにした。時津村で服屋のおかみさんに「夜歩くのは危ないから」と泊めてもらい、夕食と朝食をいただいた。

10日夕方、実家にたどり着くと、父が「生きとってよかった」と喜んだ。体中の傷が痛み、母の手料理は喉を通らなかった。病院でガラス片を除去。腕の傷口にわいたうじ虫を、母がは箸でつまみ取ってくれた。

何十年たっても腕の傷痕を人に見られるのが嫌で、夏は長袖を着て隠した。「原爆のせいで」。その悔しさは今も消えない。一緒に亀岳村に帰った先輩3人はいずれも、30~40代の若さで白血病などで亡くなった。

<私の願い>

広島、長崎に続いて日本に三つ目の原爆が落とされれば、滅びてしまうと当時は思った。終戦となり、これで罪もない人が死なずに済むと喜んだ。原爆のむごさは、体験した人しか分からない。だから伝えたい。戦争は二度と繰り返してはならない。どこの国とも仲良くし、平和な世界を願う。

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