私の被爆ノート

偏見にも苦しめられ

2012年4月13日 掲載
宮崎カズエ・下(81) 宮崎カズエさん(81) 爆心地から1・1キロの大橋町で被爆 =雲仙市南串山町=

8月10日、稲佐山から歩いて数時間。ようやくたどり着いた道ノ尾駅はごった返していた。汽車には、重傷者らが次々に運び込まれ、軽傷の私は後回し。夜中になってようやく乗せてもらった。

混雑する車内に口之津(現在の南島原市)出身の同僚がいた。ずっと一人だったので、知り合いの顔を見てほっとした。諫早経由で島原半島南部を目指した。11日未明、口之津駅に到着。同僚の家で数時間眠り、朝になると左に橘湾を見ながら南串山まで十数キロを歩いた。実家に着いたのは正午ごろ。家族の顔を見ると倒れ、そのまま眠ってしまった。

その後、数年間は体調を崩したり髪の毛が抜けたりして、療養しながら実家の農業を手伝って過ごした。

10年後の1955年、名古屋市の食堂で働き始めた。九州なまりが抜けず、ある日、「出身はどこ」と聞かれた。「長崎」と明かし、被爆のことを話すうち、周りからだんだん人が離れていった。「あいつは被爆者。病気がうつるから近づかない方がいい」。そんな陰口を言われていたようだった。原爆投下から10年たっても被爆は、特に県外では伝染病のようなイメージを持たれていた。

それでも名古屋で結婚を誓い合う人ができた。相手は被爆者である私を受け入れてくれたが、その両親は「被爆者と結婚したら奇形児が生まれる」と猛反対。結局、破談になった。

被爆時に着ていた服、稲佐山でもらった乾パンは宝物として大切に名古屋まで持ってきていた。でも、このとき捨てた。「被爆のことはもう誰にも話さない。一人で生きていこう」。働き続け、独身を通し、20年ほど前、両親の介護のため南串山にUターンした。

地獄のようだった“あの日”。瀕死(ひんし)の同僚の顔は、今もはっきり覚えている。何もできなかったことが悔しい。でも、その後に続いた被爆者への偏見も本当に苦しかった。

なぜ私が生かされたのか。それは分からない。長く生きて、つらいことの方が多い人生だった。原爆さえなければ、自分にも人並みに青春のようなことがあったかもしれない、と思う。
<私の願い>

被爆体験を詳しく話したのは初めて。同じ被爆者から「後世に伝えんば」と言われ、「元気なうちに話さんばかな」と思った。原爆は罪もない人の命を奪う。「それでも必要ですか」と訴えたい。核兵器も戦争もない世の中を願う。若者が核兵器廃絶の署名を集め、頑張っている姿に励まされている。

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