山根 良美
山根 良美(79)
山根良美さん(79) 爆心地から3・3キロの西彼長与村高田郷で被爆 =長崎市幸町=

私の被爆ノート

兄、白骨体で見つかる

2012年4月5日 掲載
山根 良美
山根 良美(79) 山根良美さん(79) 爆心地から3・3キロの西彼長与村高田郷で被爆 =長崎市幸町=

長崎市大黒町の実家から、家族で道ノ尾の親類宅に疎開。県立長崎高等女学校1年の12歳で汽車通学していた。あの日、午前10時56分発に乗るため、歩いて道ノ尾駅に向かう途中、汽車が走り去るのが見えた。遅れて発車した一つ前の汽車だったが、乗り損なったと勘違い。仕方なく家に戻って身重の母と窓辺で雑談していた。B29の音が聞こえ、閃光(せんこう)が走った。とっさに母と神棚の下に伏せた。

顔を上げると家屋の土壁はポッカリ開いて外が見えた。隣の部屋にいた弟と妹の手を引いて夢中で外へ。近所のおばさんは意味不明なことを口走り、空は不気味な赤紫色。異臭も漂っていた。

裏の竹やぶがバチバチと燃えていた。防空壕(ごう)がなく芋畑に避難。大きな火の玉が頭上に見えたので伏せたが、太陽だった。恐怖心でいっぱいだった。

すぐ近くにあった三菱重工長崎兵器製作所の寮に、やけどの少年工員らが多数運ばれていると聞いた。水を飲ませると死ぬため、水気のあるダイコンやキュウリをかじらせているらしかった。手伝いに行こうとしたが子どもは見ない方がいいと止められた。壊れた親類宅の庭に布でテントを張って野宿することに。夕方、寮の方から「お父さん…、お母さん…」と、うわ言のような少年の声が聞こえていた。

長崎にいた父は深夜帰ってきたが、長崎医科大付属医学専門部の学生だった兄は帰ってこなかった。翌日から父は長崎で兄を捜し回ったが、見つからなかった。

人づてに終戦を知った。物心ついたころから戦時下が日常だった。「戦争は終わるということがあるんだ」と気付いた。

翌年1月、金比羅山の頂上付近の鉄塔の根元で、白骨体が見つかった。兄だった。被爆し、逃げ延び、息絶えたのだろう。靴の中の名札で身元が分かった。

<私の願い>

罪のない人を殺す戦争は絶対に間違っている。母は、あの日の兄の弁当がコメでなくジャガイモだったことをずっと後悔していた。城山町から逃げてきた17歳のある娘は肉親を助けられなかったことを悔やみながら死んだ。それを覚えている私自身、年老いた。今話さないと、もう時間がない。

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