1945年8月21日、疎開先の西彼時津町から家族で長崎市水の浦町の自宅へ向かう道。浦上の辺りで、動かない牛を何頭か見つけた。「お姉ちゃん、牛が座ってるよ」。すると、姉はこう教えてくれた。「あれはみんな死んでいるんだよ」
出征していた一番上の兄を除く家族5人全員が被爆した。まだ4歳だったが、当時のことはよく覚えている。
原爆投下の数日前、三菱重工長崎造船所で働いていた父と、県立長崎高等女学校に通っていた姉が「長崎に新型爆弾が落ちる」などと書いたビラを水の浦町の自宅に持ち帰ってきた。長崎でも米軍の機銃掃射で多くの人が被害に遭っていたこともあり、「こんな恐ろしい所にはいられない」ということになった。7日未明、リヤカーに食料や家財道具を乗せて家族で避難を始め、時津町の知り合いの農家に身を寄せた。
9日。農家の縁側で遊んでいると突然、強い風が吹いて、縁側から家の一番奥まで体を転がされた。山の向こうにきのこ雲が見えた。空がだんだん黒くなり、まるで自分に覆いかぶさってくるように思えた。恐ろしくなり、縁の下で息を潜めていたが、農家の人たちが畑から帰ってきたので一緒に山の方に逃げた。
その夜、農家の人の長男が運ばれてきた。長崎で被爆し、全身にガラスが刺さって血だらけ。被爆後3日目ごろから体が腐ってきた。すさまじいにおいで誰も看病しなくなり、その母親さえ逃げ回った。「母ちゃんはそばにいてくれるよね」。助けを求めながら苦しむ姿が今も忘れられない。
21日に長崎の自宅に戻る途中、夏の暑い日なのに虫も飛んでいなかった。父が勤めていた工場はがれきの山と化し、鉄骨が折れ曲がっていた。つぶれた屋根の上を歩くと、普段は優しい父が「家の中心には神様がいる。屋根の上を歩くな」と怒鳴った。大人になって、あの屋根の下には助け出されていない多くの死体が埋まっていたのだろうと気付いた。
<私の願い>
具合が悪くなるので原爆について話したことはなかったが、福島の原発事故がきっかけに話すことにした。もう誰もあんな苦しい目に遭わせたくない。世界中に争いはあるが、もう世界大戦をしてはいけない。若い人は海外に出て世界のことを知ってほしい。それが戦争をしないことにもつながる。