「早く防空壕(ごう)に行け。(後で自分も行くから、それまでは危ないので)家に帰ってくるな」。空襲警報が鳴り響いたあの日の朝、近くの工場へ出勤する母が叫んだ。12歳だった私は1歳の妹を急いでおんぶし、小学4年生の妹、4歳の弟と駒場町(今の松山町)の家から数百メートル離れた防空壕へ走った。徴兵された父に代わって一家を支えていた母との、それが今生の別れになった。
「ブーン」。不気味な飛行機音に気付いたのは、空襲警報が解除され、ぐずる末の妹を防空壕の外であやしている時だった。“危ない”-。とっさに妹をおなかの下に隠すようにして地面に伏せた。直後、強烈な爆風に吹き飛ばされ、気を失った。われに返ると、背中がひどく痛い。やけどだったが、何が起きたのか分からないショックで、自分のけがに構っている余裕などなかった。
防空壕には、全身が焼けただれ、皮膚が垂れ下がった人たちが次々に避難してきて、身動きも取れない状態。おかゆの配給に来てくれた兵隊さんは、酔っぱらいのようにふらついていた。外には無数の黒焦げの遺体。きょうだい4人とも何とか無事なのが不思議だった。母の言いつけを守らずに家に帰っていたら、命はなかっただろう。
11日朝、4人で旧西彼三和町にあった父の実家に歩いて向かった。爆風で靴をなくしたのではだし。地面が熱かった。夕方、たどり着いた私たちを喜ぶ祖父母を前にして、肩の力が抜けたようにわんわん泣いた。
父も長兄も復員したが、ただ1人、母だけが帰ってこなかった。母の同僚という人と、父の弟に当たる叔父がそれぞれ、職場で母らしき黒焦げの遺体を見つけたと言って、荼毘(だび)に付して遺骨を持ってきた。だから実家の墓には、母とされる遺骨が2人分、眠っている。
戦後、被爆者は嫁のもらい手がないと言われ、差別が嫌で黙っていた。被爆者健康手帳を取ったのは被爆から20年以上たった1968年だった。
<私の願い>
戦時中は母の代わりに、私が幼いきょうだいの面倒を見なければならず、学校に行けなかった。学がないので、戦後は仕事を探すのにも苦労した。今は心臓などを患う。病気をすると原爆のせいではないか、という不安をずっと抱えながら生きてきた戦後だった。戦争は、もう嫌です。