中田 喜藏
中田 喜藏(83)
中田喜藏さん(83) 爆心地から4・3キロの長崎市南山手町で被爆 =新上五島町鯛ノ浦郷=

私の被爆ノート

神学校裏に同級生埋葬

2012年3月1日 掲載
中田 喜藏
中田 喜藏(83) 中田喜藏さん(83) 爆心地から4・3キロの長崎市南山手町で被爆 =新上五島町鯛ノ浦郷=

故郷の上五島を離れ、大浦天主堂(南山手町)隣の神学校宿舎で暮らしながら、旧制東陵中に通っていた。

当時16歳。8月9日、神学校の校庭で友人と話をしている時、被爆した。爆風で倒れたが、けがは軽く、手を切った程度。いったん防空壕(ごう)に避難した後、神学校に戻った。

昼すぎ、真っ黒にやけどした全裸の2人が神学校に来た。「火の中をくぐり抜けてきた」。語る声で、ようやく同級生だと分かった。別の同級生2人も全身にやけどを負って戻ってきたが看病らしいことは何もできなかった。4人はその日のうちに亡くなった。

10日朝、神学校裏の畑に穴を掘り、4人を埋葬。その後、東陵中の教頭が「妻子が家の下敷きになっている」と助けを求めてきた。神学校で暮らす長男を頼ってきたのだろう。だがその長男こそ、先ほど埋葬した4人のうちの1人だった。

上級生らと大橋町の教頭宅へ。どの道を通ったか覚えていないが、夕方ごろ到着。すぐにがれきの撤去作業に当たったが、何も道具がなく作業は難航した。

やっとの思いでがれきを取り除くと、既に息絶えた母子の姿。教頭の妻は、幼子2人をかばうように、しっかりと抱きしめていた。

がれきから搬出しようと妻の手を引っ張ると、皮がぬるっとむけた。教頭は厳しい人だったが、その時はただ、疲れ切った表情を浮かべるだけだった。

やがて県庁に勤めていた教頭の長女が戻ってきた。長女はしばらくぼうぜんと立ち尽くし、3人の遺体を抱いた。そして流れる涙で布きれをぬらし、遺体をそっとふいていた。

11日以降も上級生に連れられ、行方不明者を捜して回った。誰を捜していたのか、記憶は定かではない。街は死体であふれ、死臭が漂っていた。その悲惨な光景だけは、いまも記憶にこびり付いている。

<私の願い>

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の「戦争は人間のしわざです」という言葉を胸に刻んでいる。皆が許し合える人になれればと思う。被爆者の高齢化が進み、体験を語れる人が少なくなっている。私も年々記憶が薄れ、うまく言葉が出なくなっているが、機会があれば若い世代に語り継ぎたい。

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