西山蓮子さん(82)
川棚町で救護被爆
=東彼川棚町下組郷=
川棚町下組郷に自宅があった。尋常高等小を卒業した頃に父が兵にとられ、そのため女学校に行けず、青年学校で家庭科を習いながら近くの珪肺(けいはい)の療養所で働いていた。仕事は看護婦の手伝いなどだった。1945年7月、自宅に爆弾が落ちて住めなくなり、白石郷の防空壕(ごう)で病弱な母らと6人で暮らした。当時16歳。 8月9日午前11時ごろ、壕の外で母に代わって家族の昼食の用意をしていた。2、3度空が光ったので雷かと思ったが、「敵機だ、危ない」と母が私の手を取り、壕に引き入れた。やがて近所の人が来て「大村がやられている」と説明。敵機再来に備えて壕の中にいるように言われた。 翌日、近所の人から長崎に新型爆弾が落ちたようだと聞いた。婦人会連合会からは「ただ事ではない。被災者が運ばれてくるから必ず看護人を出してくれ」と伝達があった。負傷者が運び込まれた中組郷の寺に、まず母が行った。やがて母は壕に戻ってきたが、体調が良くないと言うので代わって私が行ってみた。寺は、患者と呼べないほどのひどいけがややけどの人ばかり。手を付けられる状態ではなかった。あがいて苦しむ人、「水をくれ」とうめく人、かすかな声で身内の名前を呼ぶ人-。みんな焼けただれ、夏場だったのでにおいもひどかった。 何とかしてやりたいと思いながらまごついている私に向かって、消防団員が「水はやるなよ」と叫んだ。でもかわいそうだったので水をくんで与えようとすると激しくしかられた。やがて息絶える人が出始め、団員に報告するとむしろを掛けるよう指示された。夕方までそんな作業をしたと思う。遺体は団員が運び、馬車に乗せられてどこかへ行ってしまった。 後年、私は被爆者健康手帳を申請する時、県外にいたため、被爆者の救護などに携わり放射線を浴びた「三号被爆者」として証明してくれる人を捜すのに苦労した。取得したのは1985年ごろだった。
<私の願い>
被爆者のことを考えると今も涙が出る。生きている限り戦争は二度と体験したくない。なぜあんな大きな国と戦い、多くの犠牲を出したのか理解に苦しむ。核兵器を使用すれば人が住めるところはなくなる。核兵器は絶対に造ってはならない。互いに幸せな国をつくって仲良くしたほうがいい。