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私の被爆ノート

親友と再会果たせず

2012年2月16日 掲載
不老 秀子(82) 不老秀子さん(82) 爆心地から4・5キロの長崎市上小島町で被爆 =長崎市中小島2丁目=

当時、長崎市立高等女学校3年で15歳。学徒動員で上小島町の自宅から浜口町の工場に通っていた。

朝から警報が発令され帰宅することになった。自宅に戻るのもおっくうだったので、城山町にある友人の親類宅や、浦上天主堂近くに住んでいた入学以来の親友の内藤さんの自宅を訪ねたが、いずれも留守。仕方なく帰宅した。しばらくすると、飛行機の大きな爆音がした。外に出ると庭の大きなモミジの枝の間から、遠くの空に黒い物体が落ちているのが見えた。家に入った途端、猛烈な爆風が吹き付け、縁側に干していた梅が飛び散った。「近くに焼夷(しょうい)弾が落ちた」。自宅の母やきょうだいとそんな話をした。

午後、大勢の人たちが思案橋方面に逃げて来た。県庁方面の建物からは火の手が上がり、真っ赤な炎に包まれている。飛行機も飛び回っていて、生きた心地がしなかった。爆心地近くから戻った近所の人はけがを負っており、一晩すると次から次にうじ虫がわいていた。

数日後、福岡の電機メーカーに務めていた父が道ノ尾駅から歩いて戻ってきた。「浦上在住の友人を捜したが、とうとう見つからなかった」と語っていた。

終戦後、通学途中の寺町では毎日遺体を燃やしていた。なぜか、においも何も感じなかった。行方不明になったり亡くなった同級生もいた。内藤さんと再会することもなかった。

当時の同級生とは今も交流があるが、原爆の話題は出てこない。思い出したくない経験なのだろう。それでも何人かにお願いし、浦上付近で目の当たりにした惨状など体験を聞き、メモに書き留めてきた。爆心地付近にいなかった自分は、ほかの人の被爆体験を書き残さなければいけないと思っている。

旧鎮西学院中に通っていて、丸山町で被爆した夫は13年前に亡くなった。夫もあまり原爆について語らなかった。もっと体験を聞いておけば良かったと後悔している。

<私の願い>

原爆投下から75年間は草木が生えないといわれ、現在の長崎大医学部の近くの畑を耕し、イモを植えたのを覚えている。しかし、被爆当時の記憶は徐々に薄れている。何かに書き残しておけば、他の人も体験を知ることができる。若い世代には被爆者の体験を語り継いでいってほしい。

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