「男は軍人、女は看護婦になりなさい」と教育を受けていた。長崎市の淵国民学校を卒業後、飽の浦町にあった三菱病院の看護師の養成所で3年間学び、憧れの陸軍病院に採用が決まった。
梅香崎町の陸軍病院は規律が厳しく、軍隊のようだった。毎日、検温や書類運びなどに追われ1カ月が過ぎようとしたころ、17歳の私は8月9日を迎えた。
病院の2階で作業していると突然、強い光に襲われた。「防空壕(ごう)に避難しろ」と声が聞こえ、階段を駆け降りて玄関に着くと、浦上方向からくすんだ柿色の光がすーっと近づいてきて、強い爆風が吹いた。とっさに両腕で顔を覆ったが、無数のガラス片を浴び、腕に刺さったり唇を切ったりした。
近くの壕に避難。しばらくすると、全身の皮がずるりとむけて垂れ下がった中学生ぐらいの男の子が入ってきた。「ちくしょう、ちくしょう」と言いながら横たわり、「天皇陛下、万歳」と叫び、数分もしないうちに息絶えた。不謹慎かもしれないが、男子は死ぬとき本当にこのようなことを口にするのだな、と内心驚いた。
午後から病院に戻り、救護に当たった。運ばれてきた40代くらいの女性は、体中にガラス片が刺さっていた。軍医とピンセットで取り除くたびに悲鳴を上げ、しばらくして息を引き取った。
その晩は、同僚と「しかばね室」の番をした。同僚は「かわいそう」と泣き続けていたが、私は看護師として何ができるのかと自問を続けた。
翌朝、父が病院を訪れ、初めて家族のことを思い出した。それほど職責を全うしようと必死だった。親やきょうだいの無事を知って少し安心し、その後もしばらくは治療に当たった。
原爆投下から1カ月ほど後、大橋町辺りの橋のたもとにトウモロコシの芽が生えているのを目にした。数十年は草木も生えないといわれていたが、生命力の強さと復興への希望を感じた。
<私の願い>
いかなる理由があれ、戦争は絶対にしてはいけないと思う。お互いに主張したいことがあるのなら武力ではなく、話し合いで解決すべきだ。一方で核兵器がなくならない現状もあり、抑止力のための保有は致し方ない気もする。ただ、後世が安心して暮らせるためにも核兵器廃絶は願っている。