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私の被爆ノート

仲良くなった青年米兵

2012年1月26日 掲載
岡田 和子(76) 岡田和子さん(76) 爆心地から4・3キロの長崎市東琴平町で被爆 =長崎市大橋町=

原爆投下のころを振り返って思い出すのは、尊敬する父と米軍の青年。聴覚障害者だった父は、造船などいろんな仕事をしながら私と、入院を繰り返した母を養ってくれた。終戦直後に知り合った青年米兵は、10歳の私をかわいがってくれた。

1945年8月9日の朝。住んでいた東琴平町の高台にある防空壕(ごう)付近で友達と水遊びをしていると、体験したこともない光を浴び、あわてて壕に飛び込んだ。

壕の中で震えていると、父が弁当を持って来た。こちらへ向かう途中、爆風に吹き飛ばされてけがを負い、弁当箱もゆがんでしまったという。ふと長崎の街を見下ろすと、あちらこちらが炎で赤く染まっていた。

母は深堀町にいて無事だった。数日後、親類の安否を確かめようと、父と家野町に向かった。防空頭巾をかぶり、父に手を引かれて爆心地付近の浦上地区を通過。焼け野原と化した街が恐ろしく、よそ見をせずに進んだ。捜していた親類宅は焼けてしまったのか、見つからなかった。

浪平国民学校の4年生だったが9月頃、同校は米軍施設として占領され、大浦国民学校に通うようになった。登下校で浪平国民学校の前を通る際、門番の米兵がよく遊び相手になってくれた。特に仲良くなったのがウライギスという青年。簡単な日本語と身ぶり手ぶりのやりとりが楽しかった。原爆を落としたのは米国だが、米国人を恨む気持ちにはなれなかった。

12月24日。自宅にクリスマスツリーとお菓子が届いた。父に聞くと、ウライギスがプレゼントしてくれたらしい。彼はそのまま帰国。お礼も言えなかった。

父は13年後、喉頭がんで他界。59歳だった。遺体は原爆傷害調査委員会(ABCC)が解剖。結果は知らされなかったが、父のがんは原爆の影響があったと思う。母も60歳を過ぎてこの世を去った。

もし、父とウライギスに、もう一度会えるとしたら「ありがとう」と言いたい。

<私の願い>

人の手によって人の命を奪う核兵器は許せない。原発事故で放射能におびえて暮らす子どもたちもかわいそう。原爆投下や原発事故が二度と起きないように、核は絶対になくすべきです。戦争は国のトップが引き起こすが、国民は平和を望んでいるはず。もっと市民レベルの対話を大事にすべきでは。

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