長崎市の三菱重工長崎兵器製作所大橋工場に勤めて4カ月。毎日へとへとになりながら、魚雷のプロペラをやすりで磨く作業に当たっていた。故郷の佐賀県西川登村(現武雄市)の西川登国民学校高等科を卒業後、14歳で徴用された。
8月9日は夜勤明けだった。道ノ尾の寮で母親宛ての手紙を書き、歩いて15分ほどの所にあった岩屋町の郵便局のポストに投函(とうかん)した。
その時だった。稲妻のような光に包まれた後、晴天の空が一瞬暗くなり、「ザーッ」と夕立のような音が響いた。熱風で首の後ろをやけどした。げたを脱ぎ、寮に向かって夢中で走った。途中、体に火が付いた牛が畑を走り回ったり、家の屋根が燃えたりしているのを見た。
寮に戻ると、部屋には割れた窓ガラスが散乱していた。しばらくすると、やけどで顔や腕の皮がはがれた人など多くの負傷者が寮に避難してきた。防空壕(ごう)に避難していた寮の人たちも戻ってきた。元気な人たちで庭に何十枚も布団を敷き、その上で、負傷者の傷口に食用油を塗ったり、水を飲ませたりした。
日が暮れると、負傷者を寮の中に移した。時間がたつにつれ、傷口の悪化による悲鳴とうめき声が大きくなった。やけどで目も口も開けない人、苦しんで死を待つだけの人…。地獄絵だった。
翌日から道ノ尾駅に死体と負傷者を運ぶことになった。雨戸に乗せて、寮と駅を何往復もした。きつかった。食料も大豆のかゆやコッペパンぐらいしかなく、このままでは餓死すると思った。一緒に徴用された同郷の同級生とともに12日、長与駅から汽車に乗って実家へ逃げ帰った。汽車の中も負傷者や死体で足の踏み場もないほどだった。
原爆投下の1週間ほど前の休日。友人と長崎市中心部へ外出した際、米軍機による襲撃があり、空からビラも落ちてきた。拾って読んだが、確か「長崎良い町、神の国、8月9日灰の国」と書かれていたと思う。原爆の標的だったと、後から気付いた。
<私の願い>
核兵器で被害を受けるのは一般市民。二度と使ってはならない。世界の国々が廃絶に向けて手をつなぎ合うべきだ。原発もなくした方がいい。被爆者が体験談を伝えていくことも大切だが、高齢化が進み、どんどん亡くなっている。若い人たちにしっかりと語り継いでいってほしい。