6歳の時、太平洋戦争が始まった。伊良林国民学校(現伊良林小)の4年生になる前の春休み、5歳下の妹と大村市の三浦地区の伯父宅に預けられた。
ようやく田舎暮らしに慣れてきたころだった。伯父宅の庭で妹と遊んでいると、真っ赤な光が空を駆け抜け、ドーンというとてつもなく大きな音が響いた。足がすくみ、動けなかった。とにかく恐ろしかった。
長崎の街は新型爆弾で壊滅状態と伯父から聞いた。長崎市内に残る両親が心配だった。8月15日、両親が大村まで歩いて迎えに来てくれた。原爆投下時、父は長崎市桜馬場町の実家で家具の下敷きになったが、大きなけがはなく、同市内にいた母も無事だった。
翌日から実家に戻り1週間、母と一緒に親類や知人を捜して爆心地付近を毎日、歩き回った。一面が焼け野原。真っ黒な地面と樹木が悲惨な状況を物語っていた。この時、10歳の私は「放射能」を浴びた。
9月1日、小学校に行こうと家を出て、突然倒れて起き上がることができず、病院に運ばれた。原因不明とされ、自宅での長い寝たきり生活が始まった。首から下が動かない。意識はしっかりしているだけに「このまま動けないのかな」と不安が募った。
神経を刺激する注射を全身18カ所に打つ治療を2日置きに続けた。その後、放射線による急性まひと診断されたが、1年が経過し、何とか手足が動くようになった。
指のリハビリを兼ねてピアノを習うことに。もともと音楽は好きで、すぐにのめり込んだ。原爆に対する悔しさもあり、「負けるか」という思いで必死に練習に取り組み、2年後にはベートーベンの「トルコ行進曲」を弾けるようになった。成人するまで続け、ピアノの講師になることができた。頑張りが報われたような気がした。
現在は被爆者歌う会「ひまわり」に所属。原爆の悲惨さ、平和の大切さを歌声に乗せている。
<私の願い>
原爆は生涯忘れられない出来事。今まで生きた中であんなに恐ろしい出来事はない。あのような悲惨な状況に二度とならぬよう、世界中から戦争、核兵器をなくさなければならない。原爆への思いを風化させないよう、語り部ならぬ“歌い部”として、音楽を通して真実を伝えていきたい。