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私の被爆ノート

曲がって固まった両腕

2011年12月15日 掲載
村崎 圭子(83) 村崎圭子さん(83) 爆心地から1・1キロの長崎市大橋町で被爆 =長崎市江川町=

県立長崎高等女学校を卒業したばかりで、学徒動員で三菱長崎兵器製作所大橋工場で働いていた。屋内で事務作業をしていた時、「避難しろっ」と声がして顔を上げた瞬間、ピカッと黄色い光を浴び、爆風で体がくるくると回った。

意識がもうろうとする中で逃げ回ったのは覚えているが、次に気付いた時には大村海軍病院のベッドの上にいた。顔全体にひどいやけど。髪は抜け落ち、右耳は軟骨を失ってつぶれていた。机に腕をついた体勢で熱線を浴びたので、両腕が曲がったまま固まり、膨れ上がっていた。

病室には重傷者が6、7人いた。ベッドの幅は狭く、痛みで寝返りをうって転げ落ちる人がたくさんいた。ベッドから落ちたら死んでしまうような気がして、落ちないよう気を張っていた。

入院は翌年の1月末まで続いた。退院の少し前、腐って骨が露出した左手の人さし指を切り落とすと告げられた。ショックだったが「そのままだと腕全体がだめになる」と言われ、仕方なく切ってもらった。

五島出身という年下の女の子が一緒で「元気になったから帰る」と先に退院していったが、その子は帰省して1カ月もたたずに亡くなったらしい。結局、重傷者の中で生き残ったのは私だけ。退院の時、先生から「あんたは選ばれて生き残った。絶対自殺だけはするな」と言われたのを覚えている。

原爆投下から4日目に亡くなった兄に代わって、必死に働き、実家の生活を支えた。43歳の時には子宮筋腫を患い、子宮を全摘出した。原爆の影響が怖くて結婚できないでいたが、この時完全にあきらめた。

その後「子どもはいらない」とプロポーズしてくれた男性がいた。相手がかわいそうで断ったが、女性としてそういう言葉をかけてもらって、本当にうれしかった。

<私の願い>

核兵器を造ること自体、人道に反している。使えば多くの人が死に、後遺症が残ることも分かっているはずだ。こんな思いをするのは、もう私たちで終わりにしてほしい。日本は戦争や原爆投下といったつらい経験を乗り越えて今の幸せがあるということを若い世代にも知ってほしい。

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