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私の被爆ノート

死にたくないと願い

2011年12月8日 掲載
市坪ミサヱ(80) 市坪ミサヱさん(80) 爆心地から1・2キロの浦上町で被爆 =佐世保市俵町=

学徒動員で三菱長崎兵器製作所大橋工場に通い、手を黒く汚しながら魚雷の鋳造をする日々だった。当時、淵国民学校(現長崎市立淵中)2年で14歳。あの日は空襲警報が出ており、朝から浦上町の自宅にいた。もし大橋工場にいたら、死んでいたかもしれない。

ピカッと強い光が見え、「逃げんば」と思った瞬間、ごう音とともに家が崩れた。がれきの下敷きになり、右足のふくらはぎにトタン屋根の一部が突き刺さった。

何とか脱出した。セミ捕りに出掛けていた4歳下の弟が帰ってきたので「姉ちゃんは歩けん。あんた先に逃げんね」と言うと、弟は「ばかね、姉ちゃん。機銃で撃ち殺さるっよ。おいがからっていく」と怒った。他の同級生と比べても小柄な弟だったが、私をおんぶして、がれきに足を取られながら必死に近くの山に向かった。

山には4日間いた。その間、原爆投下時に市内で仕事中だった父と再会できた。山水を飲み、畑の芋を盗んで食べた。力尽きて息絶えた人も5、6人見た。死体の鼻から白い管のようなものが出ていた様子が忘れられない。町が燃えるのを見詰め、絶望の中、死にたくないと願った。

父、弟と下山し茂里町の防空壕(ごう)に向かった。焼け野原のあちこちに死体が転がり、「水をくれ」と苦しむ人のうめき声が聞こえた。地面はまだくすぶり、はだしに激痛が走った。皮膚がただれ、ガラス片が刺さった人もいたが、怖くて直視できなかった。大人たちは死体を積み重ねて焼いていた。

原爆投下時に友人宅にいた母とは、茂里町の防空壕で会えた。壕でようやくもらえた仕出しのおにぎりは、酷暑で腐っていたが食べるしかなかった。

1週間ほどして大村市のおばの家に移った。しばらくしておばが「やっとにおいのとれた。あがん臭かったとは初めて」と言った。私たち家族の服や体には腐敗臭が染み付いていたからだった。

<私の願い>

あんなにつらく、惨めな経験をするのは自分たちだけでいい。子どもや孫は平和な世界で思い切り楽しんでほしい。戦争のない時代が続けばよいが、親が子を、子が親を殺すなど考えられない事件を知ると、何が平和なのかと考えてしまう。思いやりの心を持った人が増えていくことを切に願う。

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