長崎方向の空に落下傘のようなものが見えた。途端、雷のようなごう音が響き、山の向こうに火と煙が立ち上がった。
諫早市の県立農学校(現・県立諫早農高)2年生で16歳。同市で寄宿舎暮らしだった。実家は島原半島の北有馬町の農家。諫早市小野の農場で約50人の同級生と一緒に教師の講話を聞いていた時、午前11時2分を迎えた。皆、立ち尽くした。
翌日、長崎市からの通学生に聞いた。「新型爆弾が落ちたらしい」。稲佐には、かわいがってくれていた大叔母がいる。心配になった。数日後、行方を捜すため長崎へ。道ノ尾駅で汽車を降り、歩いた。町は焼け野原。道端や川岸には焼けただれた数々の遺体。無我夢中で進んだ。「これでは見つけ出せない」。怖さより薄気味悪さを感じ、浦上付近で引き返した。
数日後、実家に一時帰宅すると大叔母がいた。長崎で崩れた家の下敷きになって重傷を負い、はい出していったん防空壕(ごう)に逃げ込み、古里を目指したという。内臓の一部が体外に出ているひどい状態。痛ましかった。この大叔母は数カ月後に亡くなった。
8月19日、救護に当たることに。旧制諫早中の講堂に運び込まれた多数の負傷者の中から、やけどで顔がはれ、服が焼けた男性を諫早駅近くの海軍病院に担架で搬送。途中、男性は幾度もせがんだ。「水ば飲ませろ」。飲ませてはいけないと命令が下されていた。「飲めば死ぬ」「それでもよかけん飲ませて」。懇願されたが、最後まで断った。飲ませた同級生もいたようだが、そうするとすぐに息切れたらしい。
卒後、実家で農業を継いだが、40代のころまで風邪をひくと歩けないほど体調を崩すことが幾度もあった。その後、被爆者健康手帳を申請。入市被爆の証人が見つからず8月19日の救護活動を理由に手帳交付を受けた。
今でも思うことがある。海軍病院に運んだあの男性は助かったか分からない。せめて水を飲ませてあげればよかっただろうか。
66年も経過し、記憶はだんだん薄れてきたが、被爆の後の苦しかった感覚だけは、今も残っている。
<私の願い>
無差別に、何の罪のない人たちを殺す原爆を使うことは人道上許されない。いつか人類が人類を滅亡させてしまう。原爆は絶対反対。廃絶すべきだ。実現は難しくても、世界人類が平和に暮らす時代を求めていかねば。二度と戦争をしたらいけない。戦争をすれば、お互いが惨めになる。