長崎市旭町の海岸沿いの米配給所で事務をしていた。1945年5月、24歳で結婚。夫は27歳だった。平戸小屋町の実家で新婚生活が始まって20日目、夫に赤紙が届いた。鹿児島県の軍施設に召集されることに。夫は別れ際、「こうなるなら結婚しない方がよかったね」と言ってくれた。帰るまでずっと待ち続けようと思った。
8月9日、いつものように配給所で米の計算をしていた。窓からは、岸壁のたくさんの船、上半身裸で積み荷を運ぶ船員たちの姿が見えた。
突如、外が紫に光り、窓ガラスが割れた。幸いけがはなく、一目散で近くの防空壕(ごう)へ。逃げ込んできた船員たちの肌は、ジャガイモの皮がむけたように痛々しくはがれていた。
しばらくして、実家に戻るため防空壕を出た。道は家々の屋根から滑落した瓦で埋め尽くされていた。その上をゆっくり進んだ。
同居の両親、妹は無事。父は勤め先の工場で一緒に働いていた学徒動員の子どもらがたくさん亡くなったらしく、居間で泣き崩れていた。
私は徐々に体調が悪くなり、数日後には寝たきり状態になった。1日に何十回も便所に行くため、おむつを着けた。やがて全身にやけどを負った15歳くらいのいとこの女の子が運び込まれた。同じ座敷での寝たきり生活。数日後、いとこは体中から黄色いうみが出て、うじ虫がわいた。9月1日、亡くなった。
軍に召集されていた人たちが帰ってきたという話を聞いては「うちの人はまだかなあ」と寝床でいつも考えていた。9月中旬、夫が帰ってきた時、うれしくて仕方がなかった。
「長崎は壊滅と聞き、もう駄目かと思っていた」と夫。頑張って寝床から起き、家事に精を出すうちに少しずつ体調が戻り、その後、3人の子どもを授かった。
66年も経過し、記憶はだんだん薄れてきたが、被爆の後の苦しかった感覚だけは、今も残っている。
<私の願い>
核兵器は絶対につくってはいけない。「原爆」と聞くだけでいや。たくさんの人が亡くなり、戦争が終わった今でも苦しんでいる。 過去は忘れていくものだろうけど、忘れないためにも伝え続けなければいけないと思う。原爆を知らない若い人たちが平和について考えてくれることを願う。