8月9日午後、長与駅は長崎から逃げてきた負傷者らでごった返していた。長崎方面からようやく到着した列車はやけどを負った人であふれ、床には折り重なった重傷者。まるで地獄。何が起きたかは分からない。ただ、昼前に体験した強い光と爆風が関係しているのは明らかだった。
西彼長与村の長与国民学校(現長与小)と同じ校舎内の長与高等実業青年学校に勤務していた。まだ19歳の新米教師。午前中、夏休み返上で出勤し、校舎近くの田んぼで生徒と除草作業をしていた。突然の光に目がくらみ、強い風で倒れ込んだ。見回すと校舎の窓ガラスが割れていた。
取りあえず生徒を帰宅させ、自分も諫早の実家に列車で帰るため長与駅へ。しかし列車に乗り込める状況ではなかった。
やむなく学校に引き返すと、教室には運び込まれたり避難してきた負傷者が多数、横たわっていた。焼けただれた体に破れた服の布きれがベッタリと張り付いている人も。血の気が引いた。「起こして」。そう頼まれたが、ひどいやけどの体のいったいどこに手を掛けてあげればいいのか。着物がはだけた若い女性もいた。せめて何か羽織らせてあげたかった。医師、看護師は見当たらない。薬も包帯もない。死を待つだけの救護所。
数日後、負傷者たちの体に無数のうじ虫が現れた。涙をこらえ、割りばしで取り除く作業をした。目の中にまでうじ虫がわいている人、途中で息を引き取る人もいた。
寝泊まりは宿直室。隣室が遺体安置所でにおいがひどく、眠れなかった。こんな状況が10日間続いた。よく耐えられたと思う。目の前の人たちの姿はあまりにも悲惨で、見捨てることはとてもできなかった。
医師らが来て、解放された。その後、中学校の教師になったが、原因不明の高熱で寝込んだこともあった。あの負傷者たちはどうなっただろうと時折思う。あんなつらい経験は二度としたくない。誰にもしてほしくない。
<私の願い>
長与の救護所のことはあまり語られることがなかったが、多くの人にあの惨状を知ってほしい。被爆体験は教え子に話してきた程度。公には伝えて来なかったが、被爆者も皆、高齢になり、そうも言ってられなくなった。口を閉ざしてきた被爆者も、次世代に原爆の恐ろしさを伝えなければ。