当時は上長崎国民学校の5年生だったが、戦火が激しくなった1945年は休校状態。運動場はサツマイモを育てる畑になり、授業らしい授業はできなかった。飛行機の燃料にするためと言われ、マツの樹脂である「松やに」を近くの山で集めて、学校に持っていくことが多かった。
8月9日は真夏のかんかん照り。近所の友達3人と朝から、金比羅山の中腹で松やにを採取していた。
午前11時2分。林の中にいたが、ピカッとすさまじい光を感じた。間もなく、襲ってきたのは生ぬるい暴風。「何かあったはずだ」。誰とはなく、採取をやめた。
家に帰る途中、10分ほどして「黒い雨」が降ってきた。原子雲があったのかもしれないが、私が見た限りでは雲は見当たらなかった。茶色く泥水のようでとにかく不気味。「毒かもしれない」。とっさの判断でシャツを脱いで頭にかぶり、小走りで家路を急いだ。
自宅の屋根は、爆心地を向いていた方向の瓦が全て落ち、一部の木材を残すだけになった。家の中にいた兄や母は幸い無事だった。
放射性物質を含む黒い雨を受けたためか、数日間は体がだるくなり、食欲もなくなった。
浦上で被爆し、一命を取り留め自宅に戻ってきた人が近所に数人いた。髪の毛がぼろぼろ抜けだすと、余命は長くないという話が近所に広まり、実際数日のうちに亡くなった人もいた。そんな状況は数年間続いた。
遠い親戚のおじさんが会社で原爆に遭って亡くなり、母と一緒に市役所近くの公園での火葬に立ち会った。長崎経済専門学校(現在の長崎大経済学部)のグラウンドでも犠牲者の遺体を焼いていた。
66年も前のことだが、あの日のことは今も鮮明に覚えている。それだけ、子ども心にも強い衝撃だった。
<私の願い>
原爆や核兵器は永久に放棄しなければならない。核の力に頼るのには疑問を感じている。
福島第1原発事故で広がった放射性物質を完全に取り除くことはできないだろう。子どもたちの先々が心配。原発事故は起きないと言っても誰も信用しない。原子力の平和利用も考え直すべきだ。