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私の被爆ノート

やけどの人々みな無言

2011年10月21日 掲載
中村 利博(81) 中村利博さん(81) 爆心地から2・3キロの長崎市住吉町で被爆 =大村市沖田町=

当時14歳。布津町(現南島原市)の実家を出て、1945年4月から三菱長崎兵器製作所大橋工場で働いた。住吉トンネル工場に配属され、魚雷部品製造に従事した。8月9日は、トンネル工場の外で同僚と穴掘り作業をしていた。

ピカッと光った瞬間、辺りが真っ暗になった。雷がすぐ近くに落ちたような音がして、伏せた。泥や葉が背中に落ちてきたため、すぐにトンネル工場の中へ逃げ込んだ。

トンネルから出ると、近くの住吉寮が燃えていた。中にいた血まみれの女子工員が何十人と飛び出し、逃げていた。建物は倒壊しており、すぐ近くに爆弾が落ちたのだろうと、当時は思った。

トンネル周辺を歩き回っていたら、100人近い人たちが、線路の上をぞろぞろと歩いてきた。みな無言で、やけどのため水膨れしていた。薬が何もなかったため、傷口に工場の旋盤の油を塗っていた。

三菱長崎兵器製作所大橋工場に向かった。建物は倒壊し、ぐちゃぐちゃになっていた。鉄骨が倒れ、女子工員がつぶされていた。死者がいても素通りするしかない。火を消す人間もおらず、ただ無力だった。

火災があちこちで起こり、長崎の町が燃えていた。逃げながら、山の方向に逃げた人たちがうずくまっている姿を見た。結局、住吉トンネルに戻り、夜を明かした。10日になり、郷里へ戻ろうと道ノ尾へ向かった。

駅のホームに100人ぐらいがずらっと並び、横たわった人が「水をくれ。水をくれ」と口々にうめいていた。私は無傷だったが、むしろで体を覆ったけが人の姿を覚えている。とにかく多くのけが人であふれており、恐怖心のあまり、何も感じなくなっていた。

家族は私が死んだと思っていた。2007年、初めて住吉トンネル工場跡を訪れた。地形は変わっていたが、被爆した当時をまざまざと思い出した。

<私の願い>

戦争の惨禍を繰り返してはいけない。二度と核兵器が使用されるようなことがあってはならない。核兵器を廃絶してほしい。原発も事故で恐ろしさが分かった。徐々に減らしていくべきだ。いざ戦争になれば、他国が原発にミサイル攻撃をする。日本には住めなくなるだろう。原発は廃止すべきだ。

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