寳亀 カヨ
寳亀 カヨ(87)
寳亀カヨさん(87) 爆心地から0・7キロの坂本町で被爆 =西海市西彼町上岳郷=

私の被爆ノート

体からガラス破片

2011年10月5日 掲載
寳亀 カヨ
寳亀 カヨ(87) 寳亀カヨさん(87) 爆心地から0・7キロの坂本町で被爆 =西海市西彼町上岳郷=

当時21歳。6月に知人の紹介で結婚話がまとまったが、夫となる森勘六さん=当時(24)=は浦上刑務支所の看守で休みが取れず、8月1日に勤務先で初めて会った。たくましく、優しそうだった。夫の上司が肺炎を患い、9日は薬をもらうため長崎医科大付属医院(現長崎大学病院)にいた。腰掛けた長いすの隣にはおなかの大きい妊婦がいた。

すさまじい閃光(せんこう)がし、崩れ落ちてきた天井に埋まった。息ができず苦しくて「もうだめだ」と思ったが、隙間を見つけ、がれきをかき分けて抜け出した。廊下には死人がごろごろ倒れていた。窓から外に飛び出し、山に向かってあぜ道を逃げた。

途中、カラスが羽を焼かれたのかヨロヨロ歩いていた。人間を含め全ての生き物が哀れに見えた。道がなくなり、崖をよじ登った所で力尽き、地面に倒れ込んだ。頭と顔が痛んだ。血だらけだった。2時間ほどたってからナメクジがはうように再び山の斜面を登り、防空壕(ごう)にたどり着いた。山から見下ろすと、町全体が火の海だった。

防空壕で一夜を明かした後、山道を歩き、農家の縁側で休ませてもらっていると、泣き声で目覚めた。母親は上半身の皮膚が焼けただれ、赤ちゃんに乳を与えることができず、母子共に泣いていた。かわいそうで見ていられなかった。

11日、知らない人から足袋とつえをもらった。若い警察官が私を背負い、リヤカーに乗せ、伊良林国民学校まで運んでくれた。隣の男性は全身大やけどで焼けただれた皮がつえにくっついた。男性は息絶えた。

12日朝、校門にいた私を夫の母と妹が見つけてくれ、網場町の夫の実家までトラックで連れて行ってくれた。母たちは爆心地に近い浦上刑務支所で夫を捜したが、足の裏が熱くて歩けず、生存者もいなかったという。その後、夫の家で2カ月寝たきりで療養を続け、歩けるようになって西彼町の実家に戻った。

戦後、顔の傷が恥ずかしく人前に出るのが嫌だった。時々、体からガラスの破片が出てきた。

<私の願い>

病院で隣に座っていた妊婦や薬局で働いていた人たちは逃げ出せなかっただろう。気の毒でならない。罪もない何万人もの人が身内にみとられずに死んでいった。むごい。原爆投下など人間のすることではない。二度と戦争を起こさせないために惨禍を伝えたい。

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