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私の被爆ノート

吐血止まず死を覚悟

2011年9月22日 掲載
中倉喜代香(78) 中倉喜代香さん(78) 爆心地から2・3キロの尾上町で被爆 =北松佐々町本田原免=

南大浦国民学校の6年生で12歳だった。当時の長崎市大浦出雲町で両親と妹、弟の家族5人で暮らしていた。

叔父のいる吉井村(現佐世保市吉井町)に数日後に疎開する予定だったため、1人で長崎駅まで切符を買いに行っていた。

駅で並んでいると、ブーンという音。空を見上げると1機のB29から落下傘が落ち、途中で閃光(せんこう)が走った。近くに焼夷(しょうい)弾が落ちたと思い、うつぶせになったが、爆風で体ごと飛ばされた。

背中に何か重いものがのっていたが、何とかはい出した。空は薄暗く建物は崩れ、辺りにはがれきが散乱していた。右足から出血していたが、綿入りの防空頭巾をかぶっていたおかげで頭にけがはなかった。その日は方向が分からず、帰ることができなかった。戦闘機が何度も飛来して、恐怖で眠れなかった。翌朝、「親やきょうだいに会うまでは死ねない」と思い、歩いて家に帰ることができた。

近所では、爆心地近くからやけどを負い帰ってきた人たちが次々に亡くなっていった。私も1週間、下血や吐血が止まらず、洗面器に吐いた血を見るたびに「もう死ぬばい」と覚悟した。母が諫早まで取りにいってくれたヨモギの搾り汁を飲み続けると、次第に回復していった。しかし、学校に通えるようになるまでには1年かかった。

結婚する時、怖くて、被爆者だと打ち明けられなかった。妊娠後は、健康な赤ちゃんが生まれてくるように何度も祈った。夫に被爆したことを告げたのは結婚から10年後。夫は「しょうがなかたい。戦争でみんな犠牲になったんだから」と言った。

看護師として76歳まで働き、3人の子どもと11人の孫に恵まれた。だが、被爆当時3歳だった妹は40代の時にがんで死んだ。自分もいつ白血病になるか、毎年の健康診断が怖い。

<私の願い>

人と人が傷つけ合う悲しき愚かな戦争は国や人を滅ぼす悪魔です。福島の原発事故では、多くの人が健康被害を心配し続けなければならない。尊い犠牲を忘れず、核の恐ろしさを後世に伝承し続けることが必要です。戦争と原発事故のない平和な世界の実現を祈ります。

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