平田ミエコ
平田ミエコ(91)
平田ミエコさん(91)
爆心地から2・1キロの住吉町で被爆
=島原市中堀町=

私の被爆ノート

汽車の中漂う異臭

2011年9月15日 掲載
平田ミエコ
平田ミエコ(91) 平田ミエコさん(91)
爆心地から2・1キロの住吉町で被爆
=島原市中堀町=

実家は南高小浜町(現在の雲仙市小浜町)だったが、中学入学と同時に長崎市戸町2丁目の叔父の家から市内の中学に通っていた。8月9日は朝から空襲警報が発令されたので、どこにも出掛けず家にいた。午前11時2分、青い閃光(せんこう)が見えたかと思うと、すさまじい爆風が起きた。ガラスが割れ、本棚が倒れた。外に出ると巨大なきのこ雲が見えた。

小浜で「長崎が壊滅状態」と聞いた父は、警防団の人たちと長崎市に向かった。10日に市内に入ると、私の安否を確認するために、叔父の家に来たが、私を見ると「大丈夫だな。城山国民学校(現在の城山小)の方にいるから来い」と言って立ち去った。素っ気ない気もするが、元気な姿を見て安心してくれたのだと思う。

11日の早朝から城山国民学校の方に向かった。途中、あちこちで火の手が上がっていた。天も地も、灰色のような黒色のような焦げた色一色になってしまっていた。

同校近くの防空壕(ごう)周辺で警防団の人たちと救助活動に当たった。がれきの中から聞こえる声を手掛かりに、力を合わせて助け出した。大やけどを負った人、名前を叫びながら行方の知れない家族を捜す人もいた。地獄を見ているようだった。

実家に帰ると、近所には長崎市で被爆したという姉妹がいた。確か4姉妹だったと思うが、全員髪の毛が抜け、タオルを巻いていた。外傷はなかったはずなのに、一人また一人と亡くなり、1カ月もたたないうちに全員が死んでしまった。

原子爆弾のことを「新型爆弾」と聞いていたが、放射能のことは何も知らされず、目の前の人たちを助けるのに必死だった。私たち以外にも多くの人が救助に駆け付けていた。救助中におにぎりを差し入れしてくれた女性もいた。東日本大震災でも証明された日本人の助け合いの精神は、あの時の長崎にもあった。

<私の願い>

 日本はなぜ、勝てるはずもない戦争をしたのか。愚かだったとしか言えない。今もなお核兵器を保有したり、こっそり開発している国があるようだが、原爆でやられたことがないから本当の怖さが分からないのだろう。世界中の人々が手をつなぎ、楽しく暮らせる世の中になることを願う。

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