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私の被爆ノート

とっさに箱に隠れた

2011年8月25日 掲載
薬王寺培博(78) 薬王寺培博さん(78) 爆心地から2・2キロの旭町で被爆 =長崎市旭町=

雲一つないいい天気だった。当時、朝日小学校6年で12歳。弟の幸一と旭町で海に潜ってカニを捕っていた。午前11時ごろ、周りが騒がしいので陸に上がると「飛行機、B29、落下傘が落ちた」と誰かが叫んでいた。辺りを見回したが見つけられなかった。

被爆した瞬間は光にも音にも気付かなかったが、「ブァー」というものすごい突風とともに縦横2メートルの大きな木製の箱が飛んで来て腰に直撃した。とっさに目と耳を押さえ箱に隠れた。奇跡的にやけどはしなかった。

「ブオーッ、ブオーッ」と不気味な音がするので外をのぞくと、三菱造船所の方に向かい高圧電線が虹のように光って燃えながら流れていた。恐ろしくて再び箱に隠れた。しばらくして一緒に泳いでいた弟を捜したが見つけることはできなかった。

平戸小屋町の実家に走って帰り「幸一が死んだ」と言うと、母がにっこりと笑いながら「帰ってきたよ。真っ裸で帰ってきとる」と答えた。弟が無事だったのでほっとした。

10日から15日にかけ、道ノ尾に向かう途中で行方不明になった伯母と妹を捜した。爆心地付近を中心に松山町、山里町、城山町などを捜し回ったが凄惨(せいさん)そのものだった。下大橋付近で真っ黒に焼け、ぱんぱんに膨れた親子があおむけで死んでいた。伯母と妹かと思いしばらくその場を離れられなかった。

油木町まで行くと、林の中で服が剥がれたように顔や身体中の皮膚がぶらーと垂れ下がった青白い人たちが、松の葉で水ぶくれした皮膚を刺して水分を取っていた。昼間に幽霊を見たような感じがして、恐怖で動けなかった。

城山町の伯父の一家は全滅。父たちとがれきを片付け火葬した。終戦の知らせは淵神社付近で聞いた。勝ち負けよりもこれで戦争が終わったかと思うとうれしかった。

<私の願い>

戦争は絶対に反対。友人や稲佐小の子どもは平和への活動をしている。私は今まで何もしていない。子どもたちも頑張って活動しているのに知らんぷりはできない。ここ数年で大腸や肺を手術した。体はぼろぼろで余命いくばくもないが、自分にできることをやらなければならない。

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