爆心地から2・3キロの住吉町で被爆
=平戸市木引田町=
当時、長崎師範学校予科2年で16歳。長崎市家野町の寄宿舎で寝起きしていたが、学徒動員のため授業があるのは土曜だけだった。原爆が投下されたのは木曜で、朝から住吉町の三菱兵器住吉トンネル工場で魚雷を作っていた。外ではセミが鳴き、いつもの夏空が青く広がっていた。
旋盤をまわしていた午前11時ごろ、突然、電気が消え「ドーン」というごう音が響いた。トンネルの真ん中近くにいて無傷だった私は「トンネル新設の発破」と思い、ろうそくをともした。すると、両端から髪が焼け焦げた女学生や、血を流した工員が「何もかも燃えている」「みんなやられてしまった」と、叫びながら入ってきた。
やがて「師範生は学校に集まれ」という声が聞こえ、出てみると外は火の海だった。空はほこりと煙で灰色に染まり、昼なのに日差しも見えない。木造2階建てだった寄宿舎もごうごうと燃え盛り、近づくこともできなかった。
教官の命令で師範生を捜しにまわったが、一帯は阿鼻(あび)叫喚の地獄絵図。肉の焼け焦げたにおいが立ち込め、人々は溶けた皮膚を引きずるように歩いていた。浦上川のほとりでは、やけどで倒れた人から足首をつかまれ、「学生さん、水を、水を」とせがまれた。川の水をすくってあげると、すぐに亡くなってしまった。
それ以降は、水を求められても心を鬼にして声を振り切った。師範生のうち、息がある者は道ノ尾駅や仮救護所のあった長与国民学校まで運び、亡くなった者は師範学校の運動場で火葬した。5日間の作業中、空腹に耐えきれず、焼けた畑に残っていたキュウリやトマトを食べてしまった。
平戸の実家に帰郷後、熱っぽく、下痢をしたり髪の毛が抜けることが続いた。今思えば、これが放射性物質が体に入って起こした症状だったのだろう。
<私の願い>
広島、長崎への原爆投下から66年。福島第1原発で事故が起き、人類を滅亡させうる核の脅威を世界はあらためて知った。原爆も原発も「自分さえ良ければ」という人間の欲望が生み出したものだと思う。誰もが安心して暮らせる世界を築くため、教育により、強い倫理観を育むことが大切だ。