当時26歳。23歳で嫁いだが、夫が結核で亡くなり、そのまま嫁ぎ先の家(長崎市竹の久保町)で夫の姉ら5人と暮らしていた。1944年12月、同市三ツ山町に小屋を建て疎開した。大橋町の三菱兵器製作所大橋工場に通い、魚雷の設計図を印刷し、はさみで切って整理する仕事をしていた。
その日もいつも通り午前8時に出勤。空襲警報が鳴ったので防空壕(ごう)に向かっていたら、警戒警報に切り替わったので引き返した。職場に着いた後の午前11時2分、ピカッとピンクの光が走った。音はしなかった。鉄筋3階建ての3階にいたので建物は壊れなかった。逃げ場が分からず3階をうろうろしている間にみんな逃げてしまい、一人で建物の外に出た。近くにあった木造の事務所は壊れていた。空には偵察機が飛んでいた。私は原爆が落ちる前に職場に着いたから助かったが、間に合わなかった人も多かった。
名前も分からない設計士2人と本原方面へ逃げた。「母ちゃんがつぶれた家の下にいるので助けて」と呼ぶ子どももいたが、余裕はなかった。本原地区まで行くと、もともと家が少なかったこともあって、倒れた人は見なかった。
三ツ山町に戻る途中、やけどした子どもを連れた朝鮮の人が追ってきて「油はないですか」と尋ねてきた。子どものけがしたところに塗ろうとしたのだろう。持っていないと伝えると、別のところに探しに行った。次に会った純心女学校の生徒やシスターは「今の音は何ですか。焼けた聖書が飛んできた」と聞いてきたので「どこもかしこもだめですよ」と答えると、急いで山を下りていった。三ツ山教会近くで義姉と会い「助かって良かったね」と喜んだ。
12日朝、坂本町の実家に行くと、つぶれてしまっていた。母は11日夕方に「ミサエは生きとっとやろか」と言いながら亡くなったという。両親も亡くなり、11人きょうだいで生き残ったのは3人だけだった。
<私の願い>
戦争がないこの日本は平和だと思うけど、規律が乱れており、危ない時代になった。テレビでも子どもを連れ去る事件が報道されている。政治もどうなるか分からない。おのおのの国が自分たちで平和を保っていれば戦争はないはずなのに、起きているのはどういうことか。