中浦 努
中浦 努(82)
中浦努さん(82) 入市被爆 =東彼川棚町百津郷=

私の被爆ノート

水望む声応えられず

2011年7月28日 掲載
中浦 努
中浦 努(82) 中浦努さん(82) 入市被爆 =東彼川棚町百津郷=

1945年は旧国鉄職員になって3年目の16歳。春に吹田市にある大阪鉄道教習所(電気科)を修了し、佐世保市の早岐駅にある電気関係の補修をする長崎電力区早岐分区に勤めていた。電力不足による停電が頻繁に起き、さらに夜間は、空襲警報などに対応する照明電気の減圧切り替え作業などがあって、一瞬も油断できない勤務が続いていた。

8月9日は徹夜明けの非番で、川棚の自宅裏の山で地域の人たちと軍需物資となる松ヤニを採取していた。その時、大村湾を隔てた長崎の岩屋山の付近に光を見た仲間がいて「ありゃ新型爆弾ばい」と言っていた。警防団員をしていた父はその日の夕方に呼び出され、翌朝帰ってくると「昨晩は戦災者の救護で大変だった」と話していた。

10日は、川棚から早岐まで列車で出勤したが、車内は通路もデッキも負傷者で埋まっていた。「水」「助けて」などとせがまれたが何もできず、早岐駅では逃げるようにして列車を降りた。

11日は徹夜勤務明けだったが、そのまま同僚3人と長崎の鉄道設備復旧の応援に出向いた。列車は道ノ尾駅までしか行かなかった。降りたホームの脇にひつぎが置いてあり「故陸軍伍長-」と書いた札が張ってあった。

道ノ尾駅から一面焼け野原の中を線路伝いに長崎駅まで歩いた。途中、浦上川の傍らには腹を風船のように膨らませた馬車馬が死んでいた。また、浦上駅近くの線路端にあった菰(こも)を上げてみると女性の死体が横たわっていた。

長崎駅に着くと、まず竹の久保に行って、鉄道官舎や防空壕(ごう)の中から職員家族の死体を取り出し、駅構内の空き地に古い枕木を積んで造った仮の火葬場まで戸板で運んだ。その際「こりゃ、もう世も末ばい」と言った同僚の言葉は、今でも忘れられない。

<私の願い>

同僚の言葉は「今世の終わりだ」を意味したのだろう。一面焼け野原で、被爆地は何年かは草木も生えないと言われていたので当然であろう。絶対に原爆だけは造ってはならない。本当に地球が人が住めるところではなくなるような気がしている。被爆者も少なくなる現在、声を大にして叫びたい。

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