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私の被爆ノート

母の死 悔しさ込み上げ

2011年7月21日 掲載
中村 栄治(73) 中村栄治さん(73) 爆心地から4・5キロの上小島町(現在の上小島1丁目)で被爆 =長崎市鳴滝3丁目=

自宅の玄関前で一緒に遊んでいた同級生の友人と、雲の切れ間から銀色に光る飛行機の行方を眺めていた。稲佐山上空から金比羅山方面に向けて飛んでいた。やがてその飛行機から落下傘が落ちた。その数秒後だった。

ピカッ。目の前で閃光(せんこう)が走り、次の瞬間、爆風が吹き付け、屋根瓦や窓ガラスが幾つも降ってきた。まともに立っていられず、しゃがみ込んで、必死に爆風が収まるのを待った。左手首に、4センチほど切り傷を負っていた。

当時、小島国民学校の1年生。身重の母は、原爆落下時、近所にいたが、私たちのところに来て、すぐに思案橋近くの父の実家に逃げ込んだ。背中にやけどを負ったいとこたちも戻ってきた。

私は入学前の春ごろのことを思い出していた。飛行機から「県庁中心に爆弾が落ちて、長崎が灰の町になる」というビラがまかれていたといううわさを祖父母が話していた。その話が現実に起こったのかと思い、何だか恐ろしくなった。夜になると、県庁付近の建物も燃えているのが見えた。

1週間後、母の実家がある長与に移ることになった。家族で路面電車の線路沿いに北へ向かった。茂里町の三菱長崎兵器製作所は、骨組みだけが残っており、鉄骨があめ細工のように曲がっていた。浦上駅の近くには人の死体が自分の身長の2倍以上の高さに山積みされていて、それが何カ所かあった。路面電車は、真っ黒焦げで止まったままだった。

長与に着いた後、香焼の造船所に勤務していて、行方が分からなかった父と再会することができた。

原爆後、寝たきりになっていた母は、私が5年生の時、原爆症で亡くなった。自宅で母の背中をさすっていると、母は静かに目をつぶって息を引き取った。悲しさと悔しさが込み上げてきた。

<私の願い>

毎年8月9日が来ると胸が苦しくなる。福島第1原発事故の影響で被ばくした人もいるが、孫たちには原爆の体験も合わせて、放射線について話している。戦争は、いまだに世界で起きている。子どもや孫たちに私たちと同じ思いは絶対にさせられない。戦争も核兵器もなくなってほしい。

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