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私の被爆ノート

窮地の母子にぼうぜん

2011年7月14日 掲載
小山 道正(81) 小山道正さん(81) 爆心地から1・1キロの大橋町で被爆 =西彼長与町岡郷=

当時、三菱工業青年学校の2年生で15歳。大橋町の三菱兵器工場の技術部材料研究科に属し、魚雷などに使われる鉄の部品の強度実験などに従事していた。

あの日は当直明けで、研究室でゆっくりしていた。そろそろ昼食の時間かと、時計に目を向けた瞬間、目がくらむほどの黄色く強い閃光(せんこう)が走った。とっさに目と耳を手で覆い、床に伏せた。激しい音が耳をつんざき、爆風を感じると、そのまま気絶した。

気が付くと、女子挺身(ていしん)隊の2人が私の上に覆い被さっていた。声を掛け、2人が気が付くと、一緒に外に出た。周りの工場は倒壊し、あちこちで火の手が上がっていた。挺身隊の1人が腰を負傷していたので、聖フランシスコ病院を目指した。

病院で治療を待っていると、憲兵から「ここにも爆弾が仕掛けられているから逃げろ」と言われた。逃げる途中、1人の女性が上の男の子の手を引き、下の子を背負って畑の中を歩いていた。首から血が滴り落ちる母親が「目が見えなくなってきた」と言うと、兄は「お母さんはもう死んでしまうから下りなさい」と声を掛けたが、弟もぐったりしており、反応しなかった。私はどうしたらいいのか分からず、ぼうぜんとその場を後にした。

道ノ尾の救護所に着き腰を下ろすと、背中に激痛が走った。それまで気が付かなかったが、頭頂部と背中がガラス片でえぐられていた。簡単な治療をしてもらい、その日は長与の社宅に帰った。

11日、大橋の工場に私物を取りにいこうと、再び市内に入った。市中心部はがれきの山と化しており、人や馬の死体が至る所に横たわっていた。研究室に着くと、顔見知りの報国隊員が死んでいた。鼻からちょうちんのようなものが飛び出し、顔はぱんぱんに腫れ、うじがわいていた。言葉にできない感情が私を襲った。

<私の願い>

1945年8月15日、終戦が伝えられたとき、ほっとした。戦時中は自分の考えさえ、自由に言えない状況だった。戦争は絶対にするべきではない。原爆は罪のない多くの人の命を無差別に奪うものであり、いかなる理由があるにせよ、使ってはならない。今ある平和がずっと続くことを願う。

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