長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

爆風で窓こなごな

2011年7月7日 掲載
平野 洋三(70) 平野洋三さん(70) 爆心地から4・5キロの本河内町(当時)で被爆 =五島市木場町=

当時4歳。原爆投下の約1カ月前まで両親と坂本地区の山王神社の近くに暮らしていた。周辺に兵器工場などが集中していたため、両親は「米軍が狙う」と考え、離れた本河内の借家に引っ越した。爆心地に近い坂本にいれば、防空壕(ごう)に入っていたとしても生きていないだろう。

あの日は両親と3人で家にいた。ピカッと光ったと思ったら風呂場の窓ガラスが爆風でこなごなに割れた。すぐに近所のトンネルに避難。「浦上に太か爆弾が落とされたとげな」「浦上は全滅よな」。周りからそんな声が聞こえ、怖くて母にしがみついた。しばらくすると衣服や髪の毛が焼けた人も担ぎ込まれた。

3日後、母と2人で坂本の家を確認に行った。跡形もなく、母は涙を流していた。家の前の小さな川は吹き飛んできた瓦やトタン屋根などの残骸が数多く落ちていた。

食べ物をもらうため式見地区の叔母の元まで山を越えて歩いた記憶も残る。道のりはとても長く、振り返れば4歳だったのによく歩けたと思う。川には死んだ牛や馬が捨てられ、悪臭を放っていた。叔母からご飯を食べさせてもらい、わずかな野菜を受け取って長崎港行きの船で戻った。

よく野球観戦に連れて行ってくれた父は小学2年のとき、原爆の影響による肝臓がんで亡くなった。母は貧しい生活の中で保険外交員として懸命に働き、育ててくれた。

高校卒業後に就職し、赴任先の五島で結婚。子どもを授かり、今から楽をさせようという矢先、母は他界した。当初は結核と診断されて治療を受けていたが、実は肺がんだった。原爆症の認定もなく哀れだった。

自分自身は大きく健康を損なうことなく生きてきたが、昨年2月に初期の前立腺がんと告知された。治療、手術を経て快方に向かっているが、やや不安も残る。原爆とは引きずっていくものだと感じる。

<私の願い>

戦争は人災である。二度と起こしてはならない。そして原爆投下から60年以上が過ぎた今、原子力を平和利用にと造られた原発が地震と大津波で被害を受けた。「想定外」と言われるが、スーパーコンピューターで災害を想定可能にし、安全、安心に暮らせる世の中になってほしい。

ページ上部へ