当時25歳で、5歳の娘を育てながら農業を営んでいた。8月9日朝、自宅の庭にいると、辺りが強くピカッと光り、ドカーンという爆発音が聞こえたので、急いで近くの防空壕(ごう)に逃げ込んだ。「川棚に爆弾が落ちたのだろう」と思ったが、長崎での原爆だと後で知った。
長崎市から南風崎駅に搬送された被爆者は、駅から200メートルほどの福田医院で救護された。10日以降、私たち婦人会のメンバーも駆り出された。浴衣などを包帯代わりにして手当てされた人たちが廊下いっぱいに寝かされ、何とも言えない臭いが漂い、うめき声が響いていた。
被爆者の腕や足に刺さったガラス片を医者が取り除く際に、腕などを握って押さえる手伝いをした。内部まで焼けていたのか、メスで少し刺せば簡単に破片が出てきて、皮膚がだらりとはがれた。どれも生まれて初めての光景や感覚で、気分が悪くてご飯が食べられなかった。
救護を受ける高齢男性に「私の妻はどこにいるんだろう」と尋ねられ「どこかよその病院にいるんでしょう」と答えたが、翌日に男性は亡くなった。自身も瀕死(ひんし)の状態なのに、最期まで奥さんの心配をしながら再会できず亡くなった男性がかわいそうで、今でもたびたび思い出す。救護のかいもなく毎日何人もの人が亡くなり、消防団員が近くの高台へ運び火葬していた。
義兄の家族が長与町に住み、義兄とその長男、次男は長崎市茂里町の製鋼所に勤めていた。「義兄と長男は亡くなり次男が危篤」との知らせを受け義母と義姉と3人で長与に向かったが、到着する直前に息絶えたという。当時の混乱で義兄と長男の遺品はなかった。義兄の妻らと浜辺で次男を火葬し、佐世保に戻った。帰りの列車は搬送される被爆者でいっぱいで、ここでの臭いも強烈だった。
<私の願い>
戦争の苦難は遭った人にしか分からない。一瞬で街を焼け野原にして後に何も残さず、多くの命を奪ってしまう原爆も恐ろしい。命が助かっても一生苦しめられる。核兵器は造ってはいけない。子どもたちの生きる時代がどうなるか不安でならないので、平和な世の中になってほしい。