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私の被爆ノート

朝迎えるたび友人死亡

2011年6月23日 掲載
近藤 繁美(84) 近藤繁美さん(84) 爆心地から1・8キロの昭和町(家野郷)で被爆 =対馬市厳原町西里=

当時18歳。長崎師範学校の学生だった。あの日、ほとんどの同級生は三菱兵器製作所に動員されていたが、肺に持病があり学校に残っていた。働けない代わりに寄宿舎の1階にある舎監室に寝泊まりし、天皇陛下のご真影と勅語を見張る役目を任された。室内には先生と何人かの友人がいた。

午前11時ごろ、ラジオがけたたましく報じた。「空襲警報発令、敵、大型2機、島原半島上空を西進中」-。しばらくして、窓の外が真っ白になり、ごう音が辺りを包んだ。その場にうずくまった。気付くと建物内は大きく傾き、本棚などの家具が散乱していた。出口はふさがっており、先生に助けられながら窓から脱出した。

外へ出て驚いた。昼間だというのに空はどんよりと暗く、舎監室の隣にある木造2階建ての学生寮がぺしゃりとつぶれていた。小高い所に上って町の方を眺めると、点々と火の手が上がっているのが見えた。

ご真影と勅語を安全な場所に移すため、先生と2人、浦上水源地の脇道を通り、隣町の長与小学校へ向かった。師範学校に戻ったのは午後3時ごろ。倒壊した学生寮は真っ黒に燃え尽き、校内には顔や背中が赤く焼けただれた学生が工場から続々と帰ってきていた。何をしてよいか途方に暮れ、その日は友人と一緒に住吉トンネル工場内で一夜を過した。

翌日からは負傷した学生の手当てをしたり、担架で救護所まで運んだりした。学校近くの防空壕(ごう)を寝床にしており、朝を迎えるたびに隣で友人が死んでいた。

校内の農園で学生を火葬するのも仕事だった。校舎のがれきで木箱をつくり、遺骨を入れて一つ一つに名前を記入。遺族が学校を訪れると木箱を手渡した。変わり果てた子どもの姿を見て、その場で泣き崩れる母親を幾人も目にした。

<私の願い>

原爆は戦争に直接関係がない市民や子どもまで無差別に、無残に殺す恐ろしい兵器。広島と長崎に原爆が落とされてから60年以上たった今も後遺症で苦しんでいる人々がいることを忘れてはならない。核兵器を廃絶し、戦争そのものをなくす努力を世界は続けなければならないと思う。

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